公開講演 last update 2014・3・12

公開講演1(樺山紘一) 公開講演2(鶴島博和)

5月31日(土) タッカーホール

14:00-15:30

印刷文化とヨーロッパ史の交線

講師:樺山紘一(東京大学名誉教授・印刷博物館館長)

講演要旨

印刷文化は、現在における様相からみても、人類文化におけるもっとも重要な構成要素のひとつである。 特定の文字や図像を、正確かつ大量に複製する技術として、長大な歴史をカバーしてきた。 これと、ヨーロッパ史一般とのあいだの関連を、できるだけ近年の新知見をふくむ多様な視点から通観してみたい。

1)ルネサンスと印刷文化

ヨ−ロッパにおける印刷文化は、15世紀にふたつの分野で創始された。 第1には、ドイツ人ヨハネス・グーテンベルクが、1450年の前後に可動金属活字による活版製作によって、 文字テクストの複製化に成功した。それは技術的達成としては、追従をゆるさないものであった。 つまり、金属活字の製作、油性インクの適用、ブドウ酒製造具の改良による印刷機の開発、紙製書籍の導入といった技術的展開である。

グーテンベルクの成功は、すみやかにヨーロッパ各地に伝達され、いわゆるインキュナブラの無数の出版をうながした。 しかし、その量的爆発は、ついで質的拡張によって補強された。 イングランドのカクストンや、イタリアのマヌティウスらの事業である。 かれらは印刷事業を聖俗の諸種の書籍にひろげ、多様な購買者・読者を生みだすとともに、古典諸語をふくむさまざまのテクストを出版して、ルネサンス人文主義の進展をうながした。

第2の分野は、14世紀の最末年にライン下流域を起点として開始された事業、つまり版画の制作である。 当初は、プレイング・カードや祈?用紙片として開発されたが、やがて芸術性を具現していった。 ヨーロッパにおける最初の画像複製となった木版画は、旺盛な需要にこたえて、当初はドイツ各地で盛んに製作された。 これを、質的に完成させたのは、15世紀末のデユーラーである。 ニュルンベルクの金工職の出身であるデューラーは、木版にくわえて高度な銅版画技法をも実現させる。 版画制作は油絵や彫刻といったルネサンス美術とならんで、独特の描写法を提供しただけでなく、複製版画としても膨大な作品群を送り出した。

2)産業革命による推進

グーテンベルク等の活版印刷術と、デューラー等の版画術という両分野の印刷術はその後、3世紀にわたりほとんど質的な改変を受けなかった。 しかし18世紀末から、おりからの産業革命のもと、ふたつの脈絡で変革に際会する。ひとつには、テクスト印刷に機械が導入された。 イギリスのスタンホープが、鋼鉄製の手引き印刷機を開発。 ついで、ドイツ人ケーニヒと僚友バウアーが蒸気機関によるシリンダー輪転印刷を。 これらの改良によって、数世紀のあいだ停滞していた印刷効率は、一気に数倍に向上した。 たとえば新聞発行はこれにより部数の大幅な増加が可能になる。

おなじ時期に、ドイツ人ゼネフェルダーが偶然の機会に石版印刷法を、またイギリスではビュイックが、木口木版画を発案した。 これらは、デューラー時代に始まる図版印刷に予想外の加速をあたえるものとなった。 すなわち、石版法が凸版・凹版とは異なる平易な印刷法を可能とし、木口木版が新たな表現法を提供するなど、版画制作にオリジナルな汎用性をもたらした。 これらは、いずれも産業革命の成果の一環として、19世紀には印刷文化に広汎な展開をうながした。

3)ヨーロッパとアジア

こうしたヨーロッパ史の展開を通観してきたが、世界には印刷文化にはこれとはべつに独立した固有の展開が存在する。 中国・朝鮮・日本などを舞台とする東アジアの印刷文化である。 そこではヨーロッパに6世紀ほども先立って、版画による印刷文化が創始されていた。 儒教・仏教の教典を中心として、大量の文書や画像の印刷物が制作され、実用に供された。 東アジアではまたヨーロッパとは異なる文字状況にありつつも、可動金属活字がグーテンベルク時代以前に製作されていた。 しかし、これらとヨーロッパの印刷文化とのあいだには、まったく交流がなかった。

ようやく大航海時代になって、ゴア・マカオ・長崎などでヨーロッパ系統の印刷が開始されたものの、両者の交流は19世紀にいたるまで定着することはなかった。 その間に東アジア世界では、大量の印刷文書が登場するばかりか、日本の浮世絵版画のような独特の展開をしめす事例が続出し、アジアの文化で枢要な位置をしめるようになる。 両者の交流が本格化するのは、ようやく19世紀のことであり、それは産業革命による印刷文化の拡大が前提となって、機械化と汎用性が保障されてからのことである。

4)デジタル革命か

最後に、われわれがいままさに直面する事態について、一言ふれておこう。 いうまでもなく、IT技術の急速な展開とともに、印刷文化には、アナログからデジタルへの巨大な転換が起こっている。 その推移の方向性については、容易に予測することはできないが、しかしこれへの参看なしには、印刷文化とヨーロッパ史の交線をたどってきたわれわれの論議は、完結をみることはないであろう。 それは、これからの緊喫の課題であることを忘れないようにしたい。



15:45-17:15

ヨーロッパ形成期におけるイングランドと還海峡世界の「構造」と展開

講師:鶴島博和(熊本大学教授)

講演要旨

問題の所在と対象の限定

ヨーロッパは10世紀から12世紀にかけて、ラテン的キリスト教世界(教皇庁の指令に従う司教座を細胞とする文明圏)として生まれた。 その中でイングランドは、ライン・ロワール間、あるいはパリ・ローマを枢軸とする中核地帯の半周辺として構造化され、海峡は大陸との回廊となっていった。 その一方で、近代になって「ケルト的辺境」と揶揄された「周辺」をその後背地とする「帝国」的な様相を示し始めていた(「ケルト的辺境」はイングランドを起点とした分析概念で、「周辺」を視座とすれば違った「構造」がみえてくる)。 本講演は、ヨーロッパ形成期におけるイングランドと還海峡世界の「構造」と「展開」を、史料を読み解くなかで記述していく一試論である。 構成(即「構造」)は以下の三つの要素、「権威と権力」、「社会とアソシエーション」、「交通」(交換を含む広義のコミュニケーションが結ぶ社会関係)からなる。 これらはちょうどボロメオの環のような関係にある。

1.権威と権力

1)公式の王国とキリスト教的王国統合原理

10世紀を通してイングランド統合王国が形成された。 この王国は統合原理を、部族でなく教会に求めた。 塗油は8世紀末のオッファ王にまでさかのぼるが、この旧約的な王の「生まれ変わり」による国王の誕生は、973年のエドガーのフランク的式次第に基づいた大司教執行による戴冠式で完成した。 この先行性が、なぜウェールズとアイルランドに公式王国(教皇庁と連携していく王国)が生まれなかったかを説明してくれる。 公式王国は、現象的には王国内に従属王国が存在しえない、あるいは人的紐帯で結ばれた上王が存在しえない政体である。 これによって、王家との関係を貴種の前提としていた貴顕層は、国王への奉仕と授与された特権を有する貴族(アールとセイン)へと変質し、同時に「教会」は、王の家政から分離していった。

2)アルフレッドの王統

アルフレッド以降のイングランド王家は、フランドル伯、オットー一世、ユーグ・ル・グラン、シャルル三世といった、フランク王国の国王や伯との婚姻関係を結び、ヨーロッパ全域に婚姻圏を広げた。 ルイ四世はエセルスタンのもとに亡命していたのである。エドワード(後の証聖王)は、40歳前後で王位に就くまでの26年をノルマンディで過ごし、フェカン修道院やモン・サン・ミシェル修道院と密接な関係を築いていた。

3)国王称号の変遷と帝国

統合王権の国王称号は、その統合過程を示すように、本来の部族を象徴する「ウエスト・サクソン人」の王から、マーシア(アングル人)との吸収的連合を示す経過的な「アングロ・サクソン人」の王を経て、 教会民を象徴する「イングランド人」の国王あるいは近隣の「ネイション」(自然の出自の政治的編成、あるいは呼称)への支配権をも標榜する国王=皇帝へと変化していった。

2. 社会とアソシエーション

0)フェーデと親族構造の変化

「アングロ・サクソン法典」からは、フェーデにおける加害者の傍系親族の保護から単婚小家族への移行が読み取れる。この家族構造の変化が前提である。

1)マクロ社会 (大貴族)

国王と同じく王国を超えた婚姻で結ばれた貴族集団が形成されてきた。 史料として、『アングロ・サクソン年代記』に記載された1051/2年におけるゴドウィン家のフェーデを検討して、貴族たちが共有した政治的コードと紛争解決のプロセスからその社会を描く。

2)ミクロ社会(小貴族)

統合王権のもとで、局地的な婚姻で結ばれた「よき人々」の共同体(協同行為を可能とする集団)からなる地域社会が出現した。 これは半周辺的特徴ともいえる。ここではまず、(1)史料から婚姻保証人団と贈与の証人団の人的構成をプロソポグラフィカルな方法で分析する。 (2) 彼らが関わった紛争解決のプロセスを明らかにして、地域の「友情」(平和状態で当時のキーワードでもある)回復の努力=和解そして、記憶保存の装置としての役割を析出すると同時に王文書のもつ意味を検討する。

3)アソシエーション

この時代は、政治的、宗教的あるいは経済的機能によって結ばれた諸集団が出現した時代であった。 (1)パトロネージは、マクロとミクロの社会を貫通して垂直方向の諸社会を作り上げていった。 レーン制は、その中核的な「表現」であったが、イングランドでは半周辺的な変容を遂げていった。 (2)食卓ギルドや生と死を共有する役割を果した祈祷兄弟盟約はこれらの諸社会の結合を強化した。 ここで主に扱うのは、これまで等閑視されてきた(3)海峡世界の海民と(4)貨幣製造人の役割である。 (3)海民に関しては、ケントから東部サセックスのゴドウィン家配下の鰊漁集団と、ノルマンディにおけるフェカン修道院長の海民統制(イングランドのヘイスティングズ海域の海民は彼の領民でもあったが)とルーアンの鯨漁ギルドに触れる。 彼らはノルマン征服の兵站を規定した存在であった。海民たちは「 鰊の季節」という海峡の暦を共有していた。 環海峡世界とは彼らが活動したであろう海域に環(ring)をかけて切り取った地帯であり、ここでは、ノルマンディからイースト・アングリアの沖合までを想定している。 (4)貨幣製造人は、移動するあるいは教会の庇護下にある職人集団(貨幣に打刻された製造人の名前は親方の名前であると同時にブランド名)あるいは地域の良き人々からなっていた。ケントで製造された貨幣や史料をもとに彼らの「世界」を再構成する。

3.交通

1)令状

エセルレッドの時代以降、王権は大貴族には個別宛令状で、地域に出現した自己組織化(社会的自己調整)力をもつ「よき人々(プロト・ジェントリ)」には、州宛に令状を発給して、「問いかける統治」の網掛けを行った。 州は、王の命令に応える限りで地方統治組織として現出した。この問いかけのなかで、地域は記憶の貯水池となったのである。

2)貨幣の象徴性と流通

(1)エドガーは、カロリング的(中核的)戴冠式を行った973年に、貨幣改革を行い、表に国王の肖像、裏に十字架と製造人の名前と打刻地を刻印した貨幣を発行していった。 この基本形は13世紀のエドワードの改革まで続く。王権は貨幣のマトリクスを独占し、12世紀中葉まで、2年から6年という短期間でその型と量目を変更していった。 (2)貨幣製造人は貨幣の打刻と製造を請負い、両替人を兼ねることでその流通に寄与した。貨幣の信用は、貨幣製造人と貨幣の質(銀の含有量)によって保証された。 王権の権威と権力を地域が保証したのである。(3)「帝国」は良質な銀貨を作り続けた。 中世を通してイングランド銀の含有量は概ね92.5%を超えており、スターリングは銀含有量のミニマムな保証にすぎなかった。 (4)ブーロニュ、フランドルそしてノルマンディといった環海峡領邦はイングランド通貨の重量基準を求め、それに合わせた貨幣を発行していった。

3)実践的リテラシー

海峡間の交易においては11世紀中頃にすでに、インヴォイスが出現し、為替が存在していた可能性がある。

終わりに 展開について

ボロメオの環的構造は、異なった「コード」をもつ集団間の接触によるエントロピーの増大によって摩擦を起こし、その結果、新たな「コード」を作り上げていった。 エントロピーは構造が展開していく磁力であった。審問に依っていた「問いかける統治」は、州などの地域の制度化と州における国王宮廷の巡察などを通して、徐々に時間をかけて「話し合う統治」へと変化していった。 14世紀には明らかになる議会の出現は、王国レベルでの政治的な審問の終焉と表裏一体の関係にあった。 王国は、イングランド人の王をいただく人的結合国家からイングランド王のもとでの「制度的領域国家」、あるいは「典礼による統治」から「行政による統治」へと全機構的(歴史的実体の「大きな話し」でなく観察者の認識として)展開を遂げていったのである。 良き人々は議会と結びつくジェントリーとなり、貨幣製造人の名前は貨幣から消えた。 鰊漁の海民はシンクポート・システムに編成され、国王海軍を担っていったのである。これらは、原ヨーロッパの構造的展開の中で起こった「関係」であった。