ポスターセッション一覧  Last update 2014・3・12

要項 古1 古2 中1 中2 近世1 近世2 近代1 近代2 現1 現2

実施要項

立教大学で開催される第64回日本西洋史学会では6月1日に、 こんにちの日本における西洋史学研究のなかで評価されている 日本学術振興会科学研究費基盤B研究以上の共同プロジェクトをになう研究者による シンポジウム6本(加えて立教大学主催の1本)を用意したほかは、 自由論題報告に代えて、ポスターセッションを行うことにいたしました。

ポスターセッションタイム  6月1日 12時半から2時半(昼食時間含む)

ポスターセッションタイムにおいては、時代別、テーマ別などの基準に従い部屋を分けてポスターを貼り、 その前に立つ発表者がプログラムに定められた時間内(質疑応答を含め、10分以内厳守。報告時間5分、質疑応答5分を想定)にポスターの要点を簡潔に解説します。

各部屋一人の司会者は、時間を厳密に管理し、 時間内に応じきれないほど多くの質問が出た場合には、 発表者と質問者を当該ポスターの前に残し、 次のポスター発表に進むこととします。 発表時間自体が長引いた場合も同様とします。

コーヒセッションタイム

ポスターセッションタイム以外の時間はコーヒセッションタイムと称し、各部屋を開放します。 シンポジウムに参加しない発表者と来場者は、自由にご討論、ご観覧ください。 発表者は、ポスターの前を離れる際には、戻る時間を提示してください。

5月31日は、公開講演が終わるまでに展示準備を終える予定です。 懇親会がはじまるまでの待ち時間に自由に観覧いただけます。

古代I (10号館 X201)

司会:周藤芳幸(名古屋大学)

13:00-13:10 師尾晶子(千葉商科大学)

デロス同盟期アテナイの外交政策--ポリス顕彰碑文からの考察

デロス同盟の支配を通じて、アテナイは、硬軟とりまぜ多種多様な外交政策を展開してきた。 その中の一つに、第三国のポリス市民を顕彰するというものがある。 『ギリシア碑文集成』第一巻第三版(IG I3)に代表される、従来の字体にもとづく年代決定によれば、 こうした市民顕彰の出現は前450年ころとなるが(IG I3 17, 29, 30)、その背景については不明な点も多く、 議論の蓄積のあるIG I3 17を除けば、個別の研究が全くおこなわれないまま今日にいたる碑文が大部分である。 本報告では、この第三国ポリス市民を顕彰した碑文について、その決議年代、決議の対象、決議の背景を再検討し、 デロス同盟期アテナイの外交政策について、これまであまり注目されてこなかったアテナイと当該国との双方向関係からの考察をこころみる。

13:10-13:20 竹尾美里(中京大学)

前4世紀アテネの対エーゲ海外交 --アテネとデロス間のプロクセノス付与を中心に--

前404年、アテネがペロポネソス戦争に敗北したのをうけ、 それまでアテネによって管理されていたデロス島の聖域は一時独立した状態となる。 前400年頃とされるデロス評議会の決議碑文(ID71)の存在からも、 前400年までにはデロスが独立した都市として活動し始めていたことが推測できる。 さらにこの時期を境にデロスも同時代のポリス同様、 プロクセニアの顕彰も盛んに行なっていたことが知られている。 ペロポネソス戦争後のギリシア世界におけるプロクセニアのような制度は、 当時のポリスと個人の利害関係や外交関係を紐解く上で重要な手掛りとなる。 本報告では、デロス島とアテネのプロクセニア関係の様相を探りながら、 アテネの対エーゲ海外交政策について検討する。

13:30-13:40 青木真兵(関西大学非常勤講師)

属州サルディニアにおけるフェニキア・カルタゴ文化について

本研究の目的は、古代ローマ帝国下で残存するフェニキア・カルタゴ文化に注目することで、地中海世界の変容過程を地域の視点から考察することにある。 今回の報告では、第一次ポエニ戦争後シチリア島に次いでローマの属州となったサルデーニャ島の事例を報告する。

わが国の西洋古代史研究には、そもそもフェニキア・カルタゴ研究がカテゴリーとしてほぼ存在しないといえる。 また数少ないフェニキア・カルタゴ研究も、前146年のローマによるカルタゴの破壊とともに言及が行われなくなるのが一般的である。

今回は属州サルデーニャにおけるフェニキア・カルタゴ文化の残存と変容について、2013年11月に行った実地調査の成果を中心に報告する。 これによって、西地中海世界におけるフェニキア・カルタゴ文化はカルタゴの滅亡によって消滅したわけではなく、ローマ帝国下において変容しつつ残存し続けていたことを明らかとする。

13:40-13:50 田邊有亮(青山学院大学大学院)

神々の貨幣図像にみる諸帝の治世 ―元首政初期―

古代ローマにおける貨幣は、前3世紀初頭から造幣されはじめたとされる。 当初は図像のパターンも多くなかったが、製造量の増加に伴いデザインも多様化し、元首政期には表面に皇帝の肖像、裏面に武具や人物、神々やそのアトリビュート、という形式が一般化した。 古代において貨幣はマスメディアたる側面を持つが、造幣に際し皇帝の意図が反映されることを鑑みれば、図像から施政における理念を読み取ることも可能であろう。

本報告では、1世紀のローマにおける貨幣の図像、とりわけ神の図像に着目し、その利用傾向から各皇帝毎の特徴を明らかにすることを試みる。 具体的には、アウグストゥスからドミティアヌスまでの皇帝を概観し、治世ごとに貨幣の種類と、それに占める神々の図像を検討することで、ある皇帝固有の特定の神への信仰や、共通して用いられる図像とそれが持つ意味を明示する。 これにより、諸帝の宗教政策に新たな知見を得ることができよう。

13:50-14:00 大谷哲(学振特別研究員)

デキウス迫害における供儀執行証明書発行の意図
              −執行証明書パピルス史料の分析から―

紀元後249年ローマ皇帝となったデキウスは、帝国の全市民を対象として帝国の安寧のため神々に供儀を捧げることを要求する布告を発した。 この出来事は当時のカルタゴ司教キプリアヌスの書簡および神学的著作、アレクサンドリア司教ディオニュシオスの書簡、複数の殉教録史料に伝えられる。 これらの史料からは、この勅令に伴い各地で供儀執行委員会が設置され、委員の面前で供儀を行った者には執行証明書が発行されたことが判明する。 この布告はキリスト教徒迫害研究史上、「上からの」迫害が開始された画期ともみなされ注目を集めてきた。 しかしながらこの布告ならびに供儀執行証明書発行の意図については、研究者たちの解釈が一致していない。 そこで本報告はエジプトから出土した供儀執行証明書パピルス史料を分析し、証明書の発行は実態としてどのように行われたのかを検証することで、発行者と発行申請者双方の意図の解明を試みる。

14:00-14:10 江添誠(慶應義塾大学)

ポンペイウス劇場とガダラの北劇場の関連性

前63年に行われたユダヤ王アリストブロス2世に対する遠征において 将軍グナエウス・ポンペイウスがエルサレムを攻略したのち、ユダヤによって破壊されたガダラを再建したことをヨセフスは伝えている(ユダヤ戦記1:155、ユダヤ古代誌14:75)。 近年のガダラにおけるドイツ考古学研究所の発掘調査によってポンペイウスによる再建時のものと考えられている劇場が検出されている。都市の北東部分に位置しているこの劇場は北側の神殿と中心軸を同じにして建設されていた。 一方、ポンペイウスは前55年に禁止されていた石造りの劇場をローマに創建したが、その際に批判を避けるために劇場の中心軸の延長線上に列柱廊をめぐらした神殿を設けて神殿複合体とした。 この2つの劇場の建築プランは極めて類似点が多い。 本発表では双方の文献史料と考古学データの分析を通じてガダラの北劇場がローマのポンペイウス劇場のモデルとなった可能性を明らかにしてみたい。

14:10-14:20 向井朋生(カミーユ・ジュリアン・センター)

もっと光を!
〜紀元後79年10月24日直前のポンペイ一街区における照明器具の観察〜

本発表は古代ローマ時代の住宅における照明の実態を解明する一助となるために、ポンペイの住宅内の照明器具を考察するものである。 考古学発掘によって普通の遺跡から出土する遺物は使用されていた年代・状況が不明なものが多いが、 火山噴火などの特殊な条件下で埋没・廃棄された遺跡においてはその当時の使用状況に限りなく近づくことが可能である。 紀元後79年10月(ないしは11月)24日にヴェスヴィオ山の噴火により埋没したポンペイはその条件を満たす遺跡として最適な遺跡の一つである。 噴火直前の状況をなるべく正確に復元するために、町の一区画(insula)を選び、戦前に行われた発掘の作業日誌、倉庫収蔵品目録、実際に収蔵されている出土品の丹念な検証から、 実際にその場所にあった照明器具の数と位置ならびにそれらの使用状況を復元することによって古代ローマの住宅における「光」の実態に迫る。

古代II (10号館 X202)

司会:桑山由文(京都女子大学)

13:00-13:10 堤 亮介(大阪大学大学院)

元首政期ローマにおける「都市の健全性」

古代ローマの都市衛生に関しては考古学、行政史、医学史などのさまざまな観点からの研究がある。 例えばScobie(1984)は考古学的成果などを背景に、都市ローマがいかに不衛生な空 間であったかを描き出すが、一方同時代的な衛生観念についての考察は不足している。 またRobinson(1994)などのように、都市の設備を当時の医学的知識と照らし合わせて、それらを 「公衆衛生」として論じるむきもあるが、 そうした論考からはしばしば、行政担当者からの視点が欠落しているように思われる。 上述の先行研究に対して、本発表ではむしろ、政治や行政、法に携わる者にとって、どのようなものが公的な衛生上の関心の対象になりえたかを明らかにしたい。 そのためにフロンティヌス の『水道書』等において現れる「都市の健全性」という概念を手掛かりに、元首政期ローマにおける公的な医学的配慮を検討する。 それを通じて、ローマの都市環境と衛生観念について再検討を行いたい。

13:10-13:20 長谷川敬(学振特別研究員)

後2〜3世紀ガリア・ゲルマニアとブリタンニア間の交易を担った商人たち

今日、帝政ローマ期の海上交易に関する研究成果は、とりわけ考古学の目覚しい貢献により加速度的に増大している。 しかし、その多くは、文字史料並びに考古学史料の偏在を背景に、地中海及びその付属海に集中している。 このような状況下で、申請者は、ローマ世界の周縁部に位置しながらも帝政前期を通じ活発な交易が行われた大西洋・北海に注目し、 とりわけ同海域を舞台にガリア・ゲルマニア両地域とブリタンニア間の交易に従事した商人たちに焦点を当てる。 これらの商人の存在は、10数枚の碑文史料によって直接的に裏付けられるが、興味深いことに、同史料の分析から彼らの大半がおそらく大陸側の出身であったであろうことが判明する。 本ポスター発表においては、この特徴を、一部の碑文テクスト、図表、地図を交えながら解説し、それを踏まえ発表末尾では、特徴の背景について現時点で考えられうる仮説を提示したい。

13:20-13:30 反田実樹(法政大学大学院)

古代ローマ帝政期の製粉施設―トラステヴェレ地区を中心に―

古代ローマ帝国の首都であったローマ市は、帝政期には少なく見積もっても80万人と言われるほど多くの人口を抱えていた。彼らに小麦粉を供給しパンを焼くためには、穀物を製粉する必要があった。ではローマ市内の人々の食を賄うための穀物は、どこで製粉されていたのだろうか。

ビザンツの歴史家プロコピオスは、アウレリアヌスの城壁が建設された頃(紀元後271年頃)、トラステヴェレ地区にあるヤニクルム(現ジャニコロ)の丘には数多くの製粉施設があったと『戦史(hyper ton polemon logoi)』に記録している。また5世紀初頭のプルデンティウスの『シュンマクス駁論(contra symmachum)』でも、ヤニクルムの製粉施設が言及されている。実際にジャニコロの丘では、発掘調査で水力を用いた製粉施設の遺構が見つかっている。本報告では、製粉施設の立地や操業期間からローマ市内の食糧供給を支えた設備の変化について考えたい。

13:30-13:40 浦野聡(立教大学)

ローマ時代史料の中の数字――穀物供給とアフリカ経済の事例から

ローマ時代の史料にもご多分に漏れず様々な数字が現れる。ローマへの穀物供給というテーマについて考えようするだけで、われわれはどの数字を信じるべきか迷う。相互に矛盾するので、時に、それぞれの歴史像にとって最も都合の良い数字が選ばれる結果となる。

その一方、近年、経済史家の間で、ローマ経済のGDPを推算しようとする試みが相次いだ。いずれも前工業化社会の経済規模のスペクトラムの中で、ローマ帝国がどのあたりに位置づくのか見極めようとする。見積もりは様々だが、おおむね、前工業化社会中の最富裕社会、17世紀末のイギリスや17世紀初頭のオランダのGDP以下に収まるという点では一致を見ている。

本報告では、アフリカ経済を例に取り、仮にこうした経済史家の見方に照らしてみれば、いかなる規模の穀物供給がアフリカからもたらされたとするのが妥当か、またそれを可能としたアフリカ農業経済の規模はいかほどか、ということを考えてみたい。史料中の数字に信を置き、GDP試算の枠を大きく越える歴史像を取るなら、ローマ経済が前近代経済として異例に規模が大きかった理由を説明するよう求められることになろう。そうした学際研究が進展することを願っての一試論である。

13:40-13:50 小林詩織(香蘭女学校)

いわゆる”N文書”について−古代末期の司法行政とエジプト社会

4世紀初頭から半ばにかけて作成されたと推定される6種のNの法廷文書について論じる。

先行研究では、史料の右側の文頭に記されたNのモノグラムや左側の余白について個別の解明が試みられていたが、本研究ではこれらの文書を、訴訟前手続において被告召喚の為に作成された訴訟告知であると推定し、論を進める。検討方法としては、当時の法令と照らし合わせながら、史料の筆跡、修辞的技法、法の専門用語など左右に記された語法を丁寧に比較した。

結論としては、以下の通りである。322年のコンスタンティヌス帝の勅令により、国家機関の介入を以て訴訟を開始する事が義務づけられてから、高官が対処すべき訴訟案件の数が急激に増加した。その為、代官である下僚役人が高官に向けて原告の主張を要約し、その内容理解に必要な情報を左側に書き抜いて提出した。最終的に、Nの文書は代官によって被告に配布されたものであると提言する。

13:50-14:00 紺谷由紀(東京大学大学院)

法文史料にみるローマ帝政後期の宦官

去勢手術、或いは病気等の原因により生殖能力を持たない男性である宦官は、皇帝の宮廷を中心に、ローマ帝政期からビザンツ帝国にかけてその影響力を拡大したと考えられている。4-6世紀のローマ帝政後期という時代は、そのような宦官の「拡大・発展」の過渡期と見なされ得るが、本発表は『テオドシウス法典』『ユスティニアヌス法典』の皇帝勅令を中心に、当該時期の宦官に関する法文史料の検討を行う。

従来の研究が、皇帝勅令の内に宦官の特定の官職・爵位の上昇という制度的発展の考察に終始する一方、法文発布の背景や皇帝・帝国中枢が宦官をどのように認識し、扱ってきたかという点に関しては十分な考察が試みられていない。それ故、本発表においては広く宦官一般の権利・身分に関して法文史料を検討し、皇帝・帝国中枢の宦官認識及び、彼らの勅令がビザンツ帝国へ至る宦官の「拡大・発展」において果たした役割について改めて考察する。

14:00-14:10 林俊明(フランシュ・コンテ大学博士院)

「アウレリウス・ウィクトル『皇帝伝』42章24〜25節の意味
―人物同定と執筆意図を通して―

4世紀半ばの歴史家アウレリウス・ウィクトルの『皇帝伝(Liber de Caesaribus)』は、初代皇帝アウグストゥスから4世紀半ばのコンスタンティウス2世までの皇帝の伝記集であり、360年ごろ執筆されたとされる。本書末尾の42章24〜25節でウィクトルは存命中のコンスタンティウスの臣下たちに対する批判の文言を書いているが、これらの人物たちを同定していくと、ウィクトルの直接の上司であるイリュリクム道近衛軍長官(praefectus praetorio)フロレンティウス、コンスタンティウス2世の下で権勢を誇った宦官で侍従長(praepositus sacri cubiculi)のエウセビウス、彼が有害なものとして批判する密偵(agens in rebus)のアポデミウスなどを指すと思われる。彼らは汚職や残忍さで知られており、後にユリアヌスによって断罪されている。勅命なく執筆したウィクトルは道徳の重要さを何度も強調しており、彼のモラルと正反対な彼らに対する不満を本書末尾に載せることで、彼らを弾劾する意図があったと思われる。それがユリアヌスの下で属州総督職を得ることにつながったのである。

14:10-14:20 小坂俊介(東北大学)

コンスタンティノープルのソクラテス著『教会史』の典拠は何か?
‐『教会史』におけるアンミアヌス・マルケリヌス著『歴史』の利用を中心に‐

20世紀末以来、「教会史」「年代記」いわゆる「略史」など古代末期の歴史叙述に関する研究は大きな進展を見せている。分析の視覚は多岐にわたるが、当時の歴史家たちが著作を執筆するにあたって、従来の想定以上に多数の先行作品を利用していたことが指摘され、彼らの営みの本来の姿が明らかになりつつあることは特筆すべきであろう。このような研究状況のなかで本発表は、ソクラテス・スコラスティコス著『教会史』(5世紀成立)における叙述の典拠を再検証する。従来ソクラテスは『教会史』の執筆において、「略史」「年代記」などの比較的簡略な史料をその情報源として利用したと考えられてきた。これに対し発表者は、ソクラテスはより詳細な史料、とりわけアンミアヌス・マルケリヌス著『歴史』(4世紀末成立)を利用した可能性を検証する。その作業を通じてソクラテスの歴史叙述方法を再考し、古代末期の歴史叙述文化の一端を明らかにしたい。

14:20-14:30 佐藤彰一(名古屋大学)

オドアケル再考

西ローマ帝国の終焉が、四七六年初秋のロムルス・アウグストゥルスの傭兵隊長オドアケルによる廃位を制度史的、政治史的なメルクマールとしていることは広く知られている事実である。しかし、そこにいたる政治のダイナミズムについては、必ずしも正確な認識がなされているとは言いがたい。最近の研究の進展と精緻化は、この「事件」の歴史的コンテクストに、まったく新たな視点から光を投げかける新知見や新解釈が数多く提示されている。そうした成果を参考にして、四七六年事件の歴史的意義をあらためて考えてみたい。

中世I (10号館 X206)

司会:山田雅彦(京都女子大学)

12:30-12:40 多田哲(中京大学)

ヨーロッパ中世の民衆教化と聖人崇敬ーカロリング時代のオルレアンとリエージュー

応募者は博士論文を発表題目と同じ書名で出版の予定です。本発表はその内容をご紹介し,ご批判を仰ぐことを目的としています。セッションではまず,本書の枠組みを提示し,その後,一部をやや詳しく説明する予定です。本書の枠組みは次の通りです。序と第1章では,カロリング期の民衆教化という課題の位置づけを明確にしました。第2章から第4章では,シャルルマーニュの『一般訓令』を検討し,そこで規定された民衆教化のプログラムが,どのような仕組みで司教区に伝達普及されたのかを解明しました。第5章から第7章は,司教が王権のプログラムを受けて,それをいかなる形で実行したのか,また実行にあたって直面した障害について明確化しました。第8章から第12章は,聖人崇敬を利用した教化の様相を析出しました。ここでは両司教区における聖人崇敬を概観した後,聖十字架崇敬,聖アニアヌス崇敬,聖マクシミヌス崇敬,聖フベルトゥス崇敬について考察しました。そして結論では,カロリング期の民衆教化の歴史的意義に言及しました。

12:40-12:50 仲田公輔(東京大学大学院)

9世紀後半から10世紀初頭におけるビザンツ帝 国の東方辺境政策

7世紀のアラブ・イスラーム勢力の進出以降その東方辺境地域で守勢に徹していたビザンツ帝国は、9世紀後半から攻勢に転じ、10世紀から11世紀初頭にまで至る東方への 計画的な拡大路線をとったとされてきた。しかし近年においては、拡大が本格的に進展したとされる10世紀半ば以降を中心に、その ようなビザンツの進出は計画的でも攻撃的でもなく、防衛的で柔軟な方策が積み重ねられた結果であったとする見解も提示されつつある。本報 告はこの研究動向を受け、そうした10世紀半ば以降の展開への連続 性も考慮しつつ、同時代の軍事書や他の編纂物の分析と他史料との比定を通して、拡大の端緒とされてきた9世紀後半から10世紀初頭におけるビザンツの 東方政策についても再考を試みる。その際にアラブ・イスラーム側に加えて、アルメニア人等の辺境の人々の動向についても視野に入れ、より 多面的なかたちで転換期のビザンツ東方政策の実態を把握することを目指したい。

12:50-13:00 居阪僚子(東京大学大学院)

中世アラニアの教会遺跡

ビザンツ史料ではしばしば北コーカサスの「アラニア」と呼ばれる地域への言及が見られる。この地域名は古代にユーラシア草原で活動したアランと呼ばれる騎馬遊牧民に因んでいる。アラニアは地勢上の重要性からビザンツやペルシアなどの諸勢力と様々な関わりを持っていた。ビザンツはこの地域にキリスト教の宣教を図り、聖職者を派遣した。その結果、11-13世紀にはアラニア府主教座がおかれるまでになった。現在のロシア連邦カラチャイ・チェルケス共和国で発見されたゼレンチュク遺跡には複数の教会・聖堂跡が残っており、この府主教座のおかれたアラニアの首都マガスだと考えられている。カラチャイ・チェルケス共和国を含むクバン川の上流域では他にショアナ聖堂、センティ聖堂などの教会遺跡が発見されており、修復されて正教会の教会堂として用いられているものもある。本発表においては、これらの教会遺跡の分布と調査報告を通して中世アラニアにおけるキリスト教の受容の実態を検討する。

13:00-13:10 浜田華練(東京大学大学院)

12世紀ギリシア=アルメニア教会合同計画における
     ネルセス・シュノルハリの交渉と護教論

アルメニア教会が正式にカルケドン公会議の否認を宣言しカルケドン派からの分離が決定的になった6世紀後半以降、主にビザンツ帝国からの働きかけにより幾度かギリシア正教会との合同が試みられてきた。とりわけ、ビザンツ皇帝マヌエルT世コムネノス(1143〜1180)からの教会合同の働きかけに対しては、当時のアルメニア教会総主教であり優れた神学者でもあったネルセス・シュノルハリ(在位1166〜1173年)が積極的に対話に応じると同時に、アルメニア教会が合同後も一定の範囲で教義上・典礼上の独自の伝統を保持できるようビザンツ側の譲歩を求めるという双方向的な交渉が行われた。当発表では、ネルセスとマヌエルとの間で交わされた書簡及びマヌエルによりネルセスの許へ派遣されたギリシア人神学者テオリアノスの記録を主な史料としながら、教会合同の交渉においてネルセス・シュノルハリが果たした(あるいは果たそうとした)役割を明らかにする。

13:10-13:20 橋謙公(早稲田大学大学院)

中世後期地中海世界にみる「境域」シチリア

中世シチリア史は常に二つの動向とともに描かれてきた。すなわちそれは12世紀にみるシチリアのもつ宗教的多元性やそれに伴う文化交流の結節点としての華やかな叙述がある一方で、13世紀後半以後みられる外国勢力による支配確立、頻発する戦闘行為、黒死病による人口の激減などによって特徴づけられる「衰退」史観の叙述が描かれていることである。しかし現代認識へとつながる後者の潮流に対し、14世紀についてはC. バックマンが、15-17世紀についてはS. R. エプステインが、その経済的な「衰退」史観に問題を提起した。彼らの見解をもとに、13世紀以後起こる西地中海圏での社会変容とともにシチリアの果たした役割を再考察する。そしてそこにD. アブラフィアらが述べる繁栄と衰退の狭間に位置づけられた「断絶」とその「衰退」史観が覆い隠してきた中世後期地中海世界における「境域」シチリアという視角を提示するのである。

13:20-13:30 纓田宗紀(東京大学大学院)

13世紀における教皇特使ミッションの一断章:特使グイドを中心に

近年、ヨーロッパでは教皇特使に関する研究が活発である。特に13世紀以降については、それ以前の時代よりも恵まれた史料状況によって、教皇庁の外交、地方教会とのコミュニケーション、儀礼、印章といった、様々なテーマの研究が可能となる。しかし、個別の特使活動を検討した研究はいまだ少ない。そこで本報告では、一例として教皇特使グイドを取り上げる。サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの司祭枢機卿グイドは、教皇クレメンス4世のもと、1265〜1267年にデンマーク、北ドイツ、ベーメンなどで特使活動を行った。本報告では、グイドが特使として発給した約160の文書を手がかりに、各地での活動と文書の発給状況、特使とその随行員への給与に注目し、盛期中世における教皇特使制度の一端を提示する。

13:30-13:40 古川誠之(早稲田大学非常勤講師)

中世ヨーロッパの印章に見る「船としての都市」

中世ヨーロッパの印章図像は伝統的に重要な史料と見なされてきた。それは図像が描き出す具体的な事物や技術の情報源としての性格を認められてきたからだった。他方で、印章図像は具体的な表現である以上に「表象と自己表現の手段として用いられた。つまり印章図像には歴史的事実の媒体としてだけでなく「いかにあるべきか」との理念を表現する機能が備わっていたと考えられる。  ところで北海・バルト海沿岸地域の諸都市の印章に採用されたモチーフとして、船の図像が知られている。これまでの地域研究は船の図像を具体的な表現媒体として評価し、船体の多様性や発展を探る手段としてきた。この伝統を踏まえたうえで、しかし本報告では、都市印章に表現された船の図像を、コミュニティ理念の表象として理解する。その図像学的背景を整理したうえで、都市コミュニティの権力/正統性を表現するために船の図像が採用された契機を示すことを目的としたい。

13:40-13:50 押尾高志・野村嗣(千葉大学大学院)

残存する「伝統」:古代イタリアと近世スペインにおける改宗

本発表は、キリスト教への改宗後も人々の生活に残存し続けた異教的「伝統」に注目することで、改宗者がキリスト教とそれ以前の信仰の双方をいかに認識していたのか探ることを試みるものであり、ひいては改宗という事象の示す同時代的な意味を、多神教的イタリア半島とイスラーム・スペインの二つの地域を中心に検討するものである。 キリスト教は、古代イタリアではキリスト教以前のローマ的多神教信仰を、近世のイベリア半島ではイスラーム信仰を、それぞれ「異教」あるいは「異端」として退け、その影響力を拡大していった。しかし、キリスト教への改宗ののちも、それ以前の「伝統」を多様な形で保持し続けていた改宗者たちが両地域にいたこともまた事実である。このような「伝統」の残存について、文献と図像の双方を交えて、二つの時代を比較し、改宗者の意識に注目して分析することより、改宗問題への共通の新しい視座を提供することが可能となるだろう。

中世II (10号館 X207)

司会:鈴木道也(東洋大学)

12:30-12:40 池野健(東北大学大学院)

15世紀南ネーデルラント都市の儀礼、祝祭文化と「修辞家集団」の発達

本報告は、15世紀以降ブルゴーニュ公領南ネーデルラント、とりわけフランドルの諸都市において発達した文芸家の団体「修辞家集団(Rederijkerskamer)」に焦点をあてる。都市のギルドメンバーや、芸術家など比較的上層の市民から構成され、主に当地域における俗語(オランダ語)を用いて文芸活動を行っていた「修辞家集団」は、15世紀中葉以降様々な都市儀礼を演出する役割を担うようになり急速に発達した。この発達は、先行研究においては、当地におけるブルゴーニュ公国の集権化による都市儀礼の増加と関連付けられることが多い。しかしながらこのような理解には実際に都市において市民が団体設立に何を求めたのかという視点が欠けているように思われる。「修辞家集団」の組織のあり方を知る手がかりとなる史料である「設立規約」を中心に分析することにより、同地域の都市の儀礼、祝祭文化の市民的意義の変化について考察する。

12:40-12:50 原口碧(お茶の水女子大学大学院)

15世紀フランスにおける仮装の踊り「モーリスク」の流行

「ムーア人の踊り」を意味するモーリスクまたはモーレスクは、15世紀のヨーロッパ各地で流行をみた。ヴァロワ朝フランス王国の王侯の宮廷においては、ブルゴーニュ公やアンジュー公をはじめとして、結婚式や入市式などさまざまな祝祭・儀礼空間でモーリスクが行われたことが伝えられている。モーリスクはときにアクロバットな動作をともなう仮装の踊りであったが、プロの踊り子や軽業師ばかりではなく王侯たち自身によっても興じられた。本報告では、舞踏光景を描写する年代記や写本挿絵、モーリスクのための支払いが記録される会計簿を史料として、モーリスクが開催された宴の背景や「ムーア風」の仮装の特徴に注目する。15世紀の宮廷におけるモーリスクの流行の諸相を明らかにするとともに、宮廷間の文化交流のひとつとしての側面を提示したい。

12:50-13:00 神谷貴子(名古屋大学大学院)

中世後期フリブールにおける市民層

中世後期ヨーロッパの都市を理解するうえで、市民の存在を無視することはできない。都市共同体における市民の実態を示す市民登録簿と呼ばれる史料類型は、はじめ単なる市民の氏名目録と位置付けられていたが、近年この史料が都市市民の市民権と市民誓約の証拠としての側面を有することが認識されるとともに、中世後期の市民の構成や都市への移住等を示す手がかりとしてもその史料価値が改めて評価された。その中でもスイスの都市フリブールの市民登録簿は、市民に関する詳細な情報を含んでおり、1416年に市民登録簿Uが導入された際には、記載方法が変更されたうえで、当時生存していた市民が新たな登録簿に転記され、その年のみ市民全体の微細にわたる状況が把握できる。本報告では、この転記部分から市民の構成を検討し、中世後期のフリブールにおける市民層がいかなる社会層によって形成されていたかを明らかにすることを目指す。

13:00-13:10 古城真由美(福岡大学非常勤講師)

15世紀イングランドにおけるジェントリ女性による一家の防衛

15世紀イングランドのジェントリの第一の関心事は、自らの社会的基盤であった土地である。土地の獲得・防衛には大貴族の恩顧や同郷のジェントリの支援が不可欠であったため、彼らは親戚・隣人・婚姻によって有効かつ多様な人的ネットワークを形成した。この点では、ジェントリに属する女性も同様であった。夫の盛衰は彼女らの人生を左右したので、ジェントリ女性は自らの人的ネットワークを駆使し、土地の防衛にあたった。しかし、当該期の社会は家父長制であり、女性に多くの制限を課していたのも事実である。では一家の危機が訪れた際、女性はどのような活動を行いえたのであろうか。本報告では、パストン家のマーガレットの活動を取り上げ、特に男性が活動する領域における女性の活動の可能性を検討する。

13:10-13:20 横川大輔(札幌国際大学人文学部)

国王ジギスムントの二度目の国王選挙(1411年)と「金印勅書」 

1410年秋にジギスムントとヨスト・フォン・メーレンが相次いで国王に選出された二重国王選挙から始まった神聖ローマ帝国における二重王権の状況は、翌年1月18日位ヨストが急死したことで、突如解消された。ジギスムントは、これを機にヨストを選出した選定侯のグループの支持を取り付けることに成功し、1411年7月にフランクフルト・アム・マインで行われるべき国王選挙で、唯一の国王として選出される見通しであった。

他方、前年秋にジギスムントを支持したプファルツとトリーアの両選定侯は、すでにジギスムントが、国王選挙規定であるカール四世の「金印勅書」(1356年)に則って、正当に国王に選出されているという原則を主張し、二度目の国王選挙を否定した。ここに国王支持は統一されているものの、対立が依然として残る状況が生まれたのである。本発表では、この対立に対し、どのように対処したのかという観点から、「金印勅書」と政治決定の関係について考察する。

13:20-13:30 中田恵理子(京都大学大学院)

中世後期ドイツにおける大学・学識者と都市行政

皇帝カール4世によるプラハ大学の創設以来、神聖ローマ帝国の聖俗諸侯および都市共同体は、大学の獲得に高い関心を示すようになった。14世紀後半から16世紀初頭にかけて、帝国においては17の大学が設立され、数のうえでは同時代のフランスやイタリア、スペインを凌駕するに至る。これに伴い、大学での学問経験を有する人材が、各地の宮廷や官房においても登用され始めた。彼ら学識者が果たす外交・行政上の役割は、特に自治的な都市にとって重要なものとなりつつあったが、その活動内容や地位は都市ごとに大きく異なっていた。とりわけ北部のハンザ都市リューベックと南部の帝国都市ニュルンベルクに関して、中世末期にかけての学識者の需要増大に対する都市参事会の政策はきわめて対照的であったといえる。本発表では主要大学都市に加え、上述の二つの帝国都市を比較対象として、そのような相違の由来を対外関係や社会構造に即して検討しつつ、大学と学識者の位置づけについて考察する。

13:30-13:40 井上周平(ボン大学)

近世ドイツにおける瀉血の理論と実践

ヨーロッパの医学において、瀉血は近代にいたるまで、治療法・健康法として重要視され、支配的な位置を占めてきた。とりわけ近世においては、瀉血が外科医療を担う理髪師の代表的な業務として考えられていたことを、16世紀の『諸身分の書(Standebuch)』からも見て取ることができる。

しかし、瀉血がそれを行う人々のあいだで実際にどのようなものとして考えられ、実施されていたのかという点は、これまでほとんど研究がなされていない。近世医療文化史研究を牽引するR・ユッテも多角的な視野からの研究の必要性を訴えており、瀉血の実像を解明することは、中・近世の医学(学術理論)と医療(実践)との関係を考えるうえで極めて重要な課題であるといえる。

本ポスター報告では、近世ドイツ語圏を対象として、瀉血の理論と実践に関わる史料から瀉血の実像の一端を明らかにすることを試みる。まず、16世紀に医師たちが一般読者に向けて書いた瀉血指南書(Aderlassbuch)から、医師たちが瀉血はどのように行うべきものと考えていたのかという、瀉血の理論的理想像を整理する。次に、そうした理想像が民衆レベルにどのように伝えられたのかを、一枚刷りの木版画入りビラ(Einblattdruck)の内容から見ていく。そして、ケルン市民ヴァインスベルクの回想録を用いて、実際に瀉血がどのように行われていたのかを描き出し、瀉血の実践において理論がどのように影響し得たのかを明らかにしたい。

13:40-13:50 中堀博司(宮崎大学)

ヴァロワ家ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの遺言書

中世後期フランスにおいて、王国筆頭諸侯であるヴァロワ家ブルゴーニュ公は、低地地方の経済的富を掌握し、半ば独立するかのように次第に独仏間に勢力を拡大していった。こうして同公家が「この世」においては低地諸都市に華々しい宮廷文化や都市文化を開花させたことはよく知られている。一方、「あの世」に逝った後のことについてブルゴーニュ公が何を脳裏に描いていたかは、これまでほとんど論じられることはなかった。しかし近年、中世の死生観についての研究も進展し、同公家の死にまつわる史料にもかなり目が向けられるようになった。

本報告では、同家の最盛期を築いた第3代公フィリップ・ル・ボンの二つの遺言書を特に取り上げ、ブルゴーニュ公が「あの世」に逝くに際して何を抱き、時間的推移にともなってその何が変化したかを考えてみたい。

近世I (10号館 X208)

司会:那須敬(国際基督教大学)

12:30-12:40 加藤喜之・小澤実(東京基督教大学/立教大学)

国家・論争・知識人 --17世紀デンマーク王国と
          ネーデルラント共和国におけるテクスト生成に関する比較考察--

本報告では、初期近代における国家、知識人、論争の関係に光をあてる。従来の思想史研究では、しばしば知識人の執筆したテクストの内容のみが検討対象とされてきた。しかし、知的テクストにせよその執筆者にせよ、同時代の歴史的文脈(=コンテクスト)のなかに位置づけてはじめて十分な評価を行うことができる。このようにテクストの意義をコンテクストの中で位置づけるインテレクチュアル・ヒストリーという手法を用いることで、思想史研究に新しい光を投げかけると同時に、同時代の異なる国家とそこでの論争によって生み出されたテクストを比較することで、初期近代におけるテクスト生成のあり方の特質を引き出したい。具体的に比較対象とされるのは、デンマークの医師・古物学者オラウス・ウォルミウス(1588-1654)とネーデルラントの神学者クリストフ・ウィティキウス(1625-1687)である。

12:40-12:50 山根 明大(立教大学大学院)

『リチャード2世の生涯と死』と初期近代イングランドの政治思想の急進化:
リチャード2世=「コモンウェルス」の破壊者という言説を巡って

本発表では、イングランドで正に「内乱」が勃発する直前の1642年7月12日に出版された(と推測される)『リチャード2世の生涯と死 (The Life and Death of King Richard the Second)』を取り上げる。その仮の著者名「コモンウェルスの実現を願いし者 (a Well-wisher to the Common-wealth)」が示すように、議会を蔑ろにし、「コモンウェルス」に背いた国王としてリチャード2世を否定的に描いたこのパンフレットは、恐らく議会派が国王派に対抗するために著したものであろう。そうしたリチャード2世=「コモンウェルス」の破壊者といった言説は、それ以前(特に16世紀)のイングランドにも見出すことができる。本発表においては、『リチャード2世の生涯と死』をこのような先例と比較しながら、そうした言説の形成が、初期近代イングランドの政治思想の急進化を考察する際の有力な手掛りとなることを指摘したい。

13:00-13:10 武田和久(秀明大学非常勤講師)

名誉革命後の長老教会による組織改革構想

1689年の「革命」以降、スコットランド長老教会は1693年までの一連の法によって国定教会としての地位を確立したが、その実質的な支配力はエジンバラを中心としたローランドに限定されていた。ハイランド・島嶼部をはじめとして、スコットランドの中でもテイ川以北の地域は事実上、公的には追放された主教派の影響下に置かれていた。それだけではなく、長きにわたり主教派の「迫害」を受け続けてきた長老教会はその支配を各教区に及ぼすための組織を有していなかった。本報告においては、公的に国定教会として認められた長老教会がその支配をスコットランドの各地に拡大するためにどのような組織・体制を確立することを企図していたのかを、長老教会総会が各プレスビテリに対して度々送付した教会総会・シノッド・プレスビテリ・教区の関係とその役割を規定するための草案などから読み解き、長老教会による組織改革構想を紹介する。その上で、長老教会が当時直面していた現実と彼らが思い描いていた教会支配の在り様について考察したい。

13:10-13:20 齊藤豪大(一橋大学大学院)

スウェーデン重商主義者による塩輸入問題への関心
     ―アンデルス・ノルデンクランツを事例に―

17世紀におけるオランダ海運業の展開は、イングランド航海法に代表されるような重商主義政策の展開を引き起こした。オランダ海運業に依存していたスウェーデンにおいても17世紀中期から重商主義政策が展開され、スウェーデンはオランダ海運業に依存する体制からの転換を試みることとなった。スウェーデン重商主義政策を展開する重要な動因の一つに、生活必需品の安定的かつ自立的な輸入体制の構築をあげることができる。

しかしこれまでの研究において、スウェーデン重商主義における生活必需品の安定的・自立的輸入体制の構築に関わる議論の重要性については十分な検討がなされているとは言い難い。そのため本報告では、スウェーデン重商主義者の代表的人物の一人であるアンデルス・ノルデンクランツの史料を用いて、スウェーデン重商主義における生活必需品の輸入問題、特に塩輸入問題の重要性の一端を明らかにする。

13:20-13:30 谷藤智弘(立教大学大学院)

ハノーファやヘッセン=カッセルへの供与金に関する18世紀前半イギリス議会での議論―イギリスとハノーファの同君連合を検討する事例として

イギリスでのハノーヴァ朝成立(1714年)の結果、イギリスとハノーファ選帝侯国の間に同君連合が形成された。この関係は、イギリスの政治や社会に様々な影響を及ぼした。中でも、本発表では、ジョージ1世とジョージ2世の治世における、イギリスからハノーファやヘッセン=カッセル方伯への供与金、それをめぐって行われたイギリス議会での議論を扱う。

供与金問題は、対外政策に関する当時の討論において、中心となる論点の一つであった。さらに、この問題は、同君連合へのイギリス人の態度を知る重要な事例となる。発表では、具体的には、以下の点を明らかにしたい。まず、イギリス議会の議員たちの発言から、供与金提供への賛成と反対のレトリックを整理する(例えば、供与金をハノーファ防衛のためのものであるとし、イギリスにとっての有用性に疑問を呈するもの)。そして、討論と投票の記録から、供与金への賛否と党派との関係を検討したい。

13:30-13:40 保谷朋子(日本女子大学)

18世紀におけるロンドンの膨張とその地誌的表象

「ロンドン」という地名が示す範囲は本来、現在のシティ(the City of London)と呼ばれる地域とほぼ同じ場所にあった市壁に囲まれたわずか1平方マイルほどの地域を指していたが、とくに初期近代以降イングランド国内外からの移住者の増加などが要因となり、絶えずその境界線は拡大されていった。この地理的拡大は、市壁内のギルドのコントロールを逃れるために職人などが市壁の外側へ居住区などを移して行った東側への膨張と、政治の中心地であったウェストミンスタ(Westminster)へ比較的裕福な人々が移り住んでいった西側への膨張、という二つの流れとして捉えることができる。本発表では、初期近代以降盛んに制作されるようになった地図、パノラマ、景観画といったロンドンの地誌的表象を考察し、そこに描かれるロンドンの範囲やロンドン像の変化を単にロンドンの地理的な拡張としてだけではなく、首都機能の主導権が次第に商業の中心地としてのシティから政治の中心地ウェストミンスタへと移行して行く過程として捉えることを目的としている。

13:40-13:50 早津光子(明治大学大学院)

『政治遺言』にみられる
     マリア・テレジアの国制改革前のハプスブルク君主国の宮廷社会

神聖ローマ皇帝カール6世の逝去に伴うマリア・テレジアの即位をきっかけに勃発したオーストリア継承戦争(1740−48年)によりハプスブルク君主国は存亡の危機を経験した。地方行政における領邦諸身分の自立的権力により、王権による一元的支配が不可能であった君主国の脆弱性に危機感を持ったマリア・テレジアは、軍事・財政の強化と中央集権的行政機構を目指した国制改革を実施する。マリア・テレジアの『政治遺言』の第一部には彼女に改革を決意させた継承当時の君主国の状況、その状況に至った原因と反省・批判が記されている。彼女が君主国のあらゆる不幸の根本的原因と考えたのは継承当時の大臣達の相互間の不和と分裂であった。領邦に領地を持ち宮廷社会において顕職にあった大貴族たちは、自らの利益に直結する諸身分の利益を最優先していたため、宮廷貴族の間には不和と分裂が存在し、自国の利益を顧みることのない彼らの態度が国力を弱めたのであった。

13:50-14:00 大塩量平(早稲田大学大学院)

18世紀後半ウィーンの宮廷劇場における高位貴族の観劇と社会経済・文化的背景
      ――ヨーゼフ2世期「国民劇場」の予約の分析を中心に――

西洋の舞台芸術が特権層の下から広く社会全体へと拡大・浸透する過程における需要層の変化ついて、一般に音楽史や芸術史では、近代以降、特にフランス革命や工業化の始まった18世紀後半を境に貴族の影響力が後退し、19世紀以降に市民層がその担い手になったというのが典型的な理解である。だが舞台芸術の中心地の一つであるウィーンについて検討すると、18世紀後半、特にヨーゼフ2世期以降、当地の劇場活動の活性化を先導するウィーン宮廷劇場では、非特権層の入場の急増と同時に、高位貴族も顕著な増加を示したことが明らかとなる。近年のハプスブルク領下の貴族研究の進展により、当時は貴族も社会の変化に対応すべく様々な努力を行ったことが明らかになっており、彼らの重要な行動様式であるウィーン宮廷劇場での観劇も、当時の社会経済・政治・文化的背景に応じた変化が生じていたと考えられる。報告ではヨーゼフ2世期を中心に、宮廷劇場の会計史料やいくつかの貴族の個人文書から、彼らのロージェ(桟敷席)予約の実態を詳細に分析し、その背景を明らかにする。

近世II (10号館 X209)

司会:金澤周作(京都大学)

12:30-12:40 山田今日子(東北大学大学院 )

レンブラントの東洋へのまなざし

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)は、オランダ黄金時代を代表する芸術家である。彼は自宅の芸術陳列室に、国内外の画家の手になる素描や版画といった美術品、動物の剥製や貝殻のような自然物など、あらゆる種類の品々を蒐集していた稀代のコレクターとしても知られている。1656年に作成されたレンブラントの財産目録には、東西交易を通して流入した東インド製の工芸品、衣装、細密画なども多数記載され、ここから彼の東洋趣味をうかがい知ることができる。

本発表は、レンブラントが東洋へ向けたまなざしに着目し、インドやペルシャの細密画に基づくレンブラントの素描作品を主に取り上げ、こうした異国のイメージが彼の芸術活動に及ぼした影響について考察するものである。彼が同時代の画家たちとは異なるアプローチで東洋のイメージに向き合い、己の芸術に取り込んだ過程を、レンブラントと同時代の芸術家の手になる作品や、17世紀の芸術論を引用しつつ示したい。

12:40-12:50 武田和久(早稲田大学)

スペイン領南米ラプラタ地域のイエズス会布教区におけるグアラニ語系先住民に対する軍事訓練:近世スペイン軍事史との関連から

スペイン領南米ラプラタ地域に17-18世紀にかけて存続したイエズス会管轄の布教区(レドゥクシオン)と呼ばれるキリスト教改修施設で暮らすグアラニ語系先住民に対しては、ポルトガル領ブラジルから侵入する領土侵犯勢力を食い止めるよう、スペイン王室から命令が発せられ、元軍人のイエズス会士から訓練が施され、銃器の使用も特例として認められた。従来の研究では、こうした事実は知られていたものの、軍事訓練の具体的な内容、銃器の入手手段や経路、こうしたことの帰結として生じた先住民に対する社会文化的な影響については、十分な議論がされてこなかった。本発表では、近世スペイン軍事史との関連から、布教区で実践されていた軍事訓練の様相を明らかにし、大西洋を媒介として宗主国スペインと南米植民地との間で起きていた軍事技術、制度、文化の移転の問題を考察する。

12:50-13:00 日尾野裕一(早稲田大学大学院)

18世紀前半のブリテンの大西洋貿易における商人と奨励金制度
   −海軍資材法による奨励金制度を事例に

本報告は、18世紀ブリテンの大西洋貿易に参入していた商人が奨励金制度を如何に利用し、商人の活動に制度がどのような影響を与えたのかを検討するものである。

ジュリアン・ホピットが論じているように奨励金制度は、18世紀ブリテンの通商政策として重要であるとともに、非通商的な意図を帯びていた。本報告の対象である1704年に制定された海軍資材法は、海軍用造船物資の安定供給を狙っていた。そのために設定された北米産船舶必需品輸入促進のための奨励金制度は、スペイン継承戦争後にこれらの物資を取り扱う商人の急増を招いた。これは、大西洋貿易の低い参入障壁と、奨励金制度による利益の安定化がもたらした結果であった。1729年に奨励金の減額が定められると、北米産船舶必需品貿易の従事者は明らかに減少する。その結果、この貿易は自由貿易でありながら、一部の商人が大きなシェアを占める寡占的な貿易へと変化した。 商人は奨励金制度によって利潤の獲得を狙い、その金額は商人による貿易参加の形態を規定するものであった。

13:00-13:10 小林和夫(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)

大西洋奴隷貿易とイギリス東インド会社--18世紀後半を中心に--

本報告では、18世紀後半を中心として、西アフリカにおけるインド綿布に対する需要が、東インド会社の貿易事業やインドでの綿布生産にどのような影響を及ぼしたのか、といった関係性について取り上げる。この点について、英国図書館とタミル・ナード公文書館所蔵のイギリス東インド会社の史料に基づいて考察する。

18世紀に成長した環大西洋経済は、奴隷貿易に支えられていた。西アフリカで奴隷を購入するために、ヨーロッパ商人はアフリカの現地商人が求める商品を持ち込む必要があった。なかでもインドで生産された青色の薄地綿布に対する需要は大きかった。七年戦争後の奴隷貿易の拡大に伴いインド綿布に対する需要は増加したが、イギリス東インド会社は量質ともに充分な綿布を供給できず、インド綿布の調達手段を改善する必要に迫られた。その結果、東インド会社は、従来のブローカーを通じた綿布調達ではなく、任命した監督官を通じて手職工と契約関係を結び、品質のよい綿布の確保に努めた。

13:10-13:20 青柳かおり(大分大学)

18世紀イングランド国教会と奴隷制
    −海外福音伝道協会年次記念大会の説教を中心にー

1701年、イギリス領植民地における異教徒に布教するため、イングランド国教会によって海外福音伝道協会(SPG)が設立された。SPGはアメリカ植民地に宣教師を派遣して、先住民やアフリカ系奴隷を改宗させることにしたが、彼らへの布教は困難であった。特に奴隷の場合は、彼らの主人たちが強く反対していた。奴隷は愚かで魂もないので改宗は不可能と考えられていた。また、奴隷は主人の財産であるが、奴隷が洗礼を受けると自由になる恐れがあった。18世紀は奴隷貿易・奴隷制は当然とみなされており、SPGも奴隷を所有していた。SPG年次記念大会の説教において奴隷制を擁護するものもみられた。たしかに聖書において奴隷制は認められている。しかし、18世紀後半になると奴隷貿易や奴隷制を批判する国教会聖職者も現れ、SPGの説教においても、そのような説教がなされた。イングランド国教会は奴隷制や主人の財産権を支持していたが、変化も表れたのである。

13:20-13:30 鹿野美枝(立教大学大学院)

ヘンリ・ダンダスの影響力、1783-93年 ―18世紀イギリスのインド政策

1783年12月に成立した小ピット政権のなかでインド政策の中心人物となったのは、スコットランド出身のヘンリ・ダンダスであった。小ピット政権は、84年にインド法を成立させ、インド担当部局(BOC)を設立し、東インド会社(EIC)の監督にあたらせた。ダンダスはBOC設立時よりメンバーであり、93年にはBOC再編とともに長官に就任する。 彼は、長官就任以前より議会内外でインド政策の影響力の集中を、同時代的にも研究史においても批判された。本報告では、彼がインド政策に関与する1783年からBOC長官に就任する1793年までの影響力はいかなるものであったのか、BOCおよびEICに関する一次史料から実証的に検討する。メインとなる史料はBritish Library内のIndia Office Reccordsを用いる。結論では、当時批判されたように、実質的にダンダスにはインド政策の権力集中が認められる。

13:30-13:40 長峰樂(立教大学大学院)

18世紀イギリスの議会外活動におけるメディアの役割
   −アメリカ独立戦争時における西インド委員会を事例として

18世紀のイギリスにおける議会外勢力の成長について考える際、同時代の出版業の興隆という背景を無視することはできない。当時のメディアは議会外の公論形成を促したといえ、本報告で扱う西インド委員会は、議会への圧力行使の一環として、まさにそのような形でメディアを利用した議会外組織であった。西インド委員会とは、英領西インド諸島の利害関係者により、18世紀にロンドンで結成された民間組織である。アメリカ独立戦争の開始により、同島の貿易や経営に支障が出ることを恐れた委員会は、議会や政府に対し、自身の利害が守られるべく意見陳述を繰り返した。この議会外活動の過程で、西インド委員会は、自身の活動が世論の支持を得られるようメディアを利用しての情宣戦術を欠かさなかった。本報告では、西インド委員会に関して、従来の研究では注目されてこなかった部分を、主に委員会の議事録や同時代刊行物を用いて詳らかにし、18世紀イギリスの公共圏についての新たな側面を提示することを目的とする。

13:40-13:50 大橋里見(専修大学文学部)

ロンドン・ジェネラル・ホールの設立:
   1780年代末イギリス綿織物産業と「マーケティング戦略」

1790年代以降、綿織物産業は国外に市場を広げ、イギリスにおける産業革命の展開をけん引した。この歴史とその影響については、修正論を含めてよく知られている。他方、革命直前の綿織物業の状況については、材料と織物の供給者であった東インド会社との関係も、国内産業の多様な実態も、詳細には知られていない。報告では、イギリス製綿布の質の向上に危機感を募らせた「東インド会社が、インド製綿織物のダンピングをおこなった」ことで、イギリス綿織物業が不況に陥った1787~88年の事件をとりあげ、不況対策として示された、綿製品の取引所(ロンドン・ジェネラル・ホール)開設案(1788年)の立案経緯をあとづける。また、ホール設立案が提出されたことをきっかけに、イギリス綿織物業者のあいだに市場戦略をめぐる相違が浮上した点を指摘し、その違いを歴史的コンテクストにおいて考察する。

13:50-14:00 増田久美子(駿河台大学)

リベリアを描く女たち
   ―アンテベラム期米国の白人女性によるテクストと「アフリカ帰還」運動の喧伝―

19世紀前半の米国におけるリベリア植民運動の思想と実践は、米国史では「周縁的」な問題とされてきた。その理由は、その主導的役割を果たしたアメリカ植民地協会(ACS)の「偽善性」「人種差別主義」が強調されてきたことや、その活動や存在が同時代のアボリショニストらよりも希薄であるとみなされてきたことによる。また、近年におけるACSの再評価により、この植民活動は奴隷制および人種問題を議論するうえで重要な論点として捉えられるようになったものの、なおもACSの「男性的」活動に着眼する論考が中心的であり、女性(とくに北部白人女性)がこの植民運動の問題に関与した事実については、あまり検証されていないと指摘されている(Tyler-McGraw 2007, Younger 2010)。

そのような研究動向において、本研究は「男女の領域」を規定する白人中流階級の文化的エートスのなかで、アンテベラム期北部の白人女性たちがどのように植民活動に参与したのかを検証する。女性らが組織した地方レベルの植民地協会の活動という側面にも留意しつつ、女性作家によるリベリア史やプロパガンダ小説等のテクスト分析を通して、「家庭性」と植民運動の関連性やその影響力を読み解くものとする。

近代I (10号館 X301)

司会:坂下史(東京女子大学)

12:30-12:40 楠田悠貴(東京大学大学院)

フランス革命における国王裁判の政治文化的意義
  ―ジャン=ポール・マラーの国王裁判演説を契機として

これまで、ルイ16世裁判は、国王処刑と関連づけられて論じられることが多く、国王裁判の過程は、もっぱら、ジロンド派から山岳派への主導権移行の機会として考えられてきた。本報告では、国王処刑と国王裁判を切り離して捉え、国王裁判の過程自体が王権にいかなる影響を及ぼしたのかという点について考察する。史料として、国民公会議員ジャン=ポール・マラーの演説草稿をとりあげる。この「奇妙な」草稿は、最終的に読み上げられることはなかったが、おそらく国王裁判自体の教育的意義を見抜いていた唯一の「演説」である。この草稿を契機にして、国王裁判におけるレトリックや国王のイメージを、アンシアン・レジーム期のリ・ド・ジュスティスにおけるレトリックや国王のイメージと比較することによって、国王裁判の、党派争いとは異なる、もうひとつの歴史的意義を提示したい。

12:40-12:50 板倉孝信(早稲田大学大学院)

英国における百日天下の戦費調達と戦時所得税の廃止

ナポレオン戦争終結後、当時のGNPの2倍に相当する莫大な累積債務を抱えた英国は、税収の過半を利払費に充当する深刻な財政硬直化に直面した。この危機を決定付けたのは、1816年の所得税廃止による余剰財源の喪失であった。これによって英国は以後40年間、厳格な均衡財政の維持に基づいて、実質経費の大幅な増大を制限された。

1816年の所得税延長審議に際して、全国から延長反対の請願が多数寄せられ、最終的に所得税が廃止に追い込まれたことは、広く知られている。対仏戦争の開戦時から蓄積されてきた戦時増税への不満が、終戦を契機に一気に噴出し、その象徴的存在である所得税が主要な標的となったことは、疑いないであろう。

しかし、ナポレオンのエルバ島脱出による1815年の百日天下に際して、英国が所得税の延長に一度成功していたことは、これまで注目されてこなかった。特に、この成功前後から所得税への反発が強まり、請願運動が活発化したことは特筆に値する。そこで本報告では、15年の延長成功が16年の延長失敗に与えた影響を検討してみたい。

12:50-13:00 小野寺瑶子(東京大学大学院)

フランス革命戦争期ロンドンの騎兵義勇団

フランス革命の余波を受けて、急進主義的運動が盛り上がりを見せるなか、1790年代の政府と司法・行政当局にとっては、反体制的な運動を抑止し、公的秩序を維持することが急務であった。行政組織として本格的に整備されつつあった内務省が、1792年に誕生する有給治安判事と協力関係を築きながら、その任に当たることとなる。一方、1794年以降全国に普及する義勇兵運動は、これまでの研究ではその愛国主義の実態や軍事組織としての側面が注目されてきたが、主に富裕層で構成される騎兵義勇団の活動実績をみると、内務大臣や治安判事の要請を受けて騒擾の鎮圧などに当たるのが中心である。本報告では、ロンドン・ウェストミンスタ軽騎兵義勇団を事例として取り上げる。この義勇団は、1794年に騒擾の鎮圧を自分たちの役目から外したにもかかわらず、以後一貫して政府や当局に協力した。彼らが自ら定めた規定に反してまで活動する動機は何かを探ることによって、当時の統治者層の秩序維持に対する姿勢を明らかにする。

13:00-13:10 金崎邦彦(早稲田大学大学院)

フランス革命戦争・ナポレオン戦争期におけるロイヤル・ネイヴィーの強制徴募

本セッションで扱うテーマはフランス革命戦争・ナポレオン戦争期(1793-1815)におけるロイヤル・ネイヴィーの強制徴募である。強制徴募(Impressment)とは中世からナポレオン戦争まで行われ、陸上や海上で強制的に主に水夫を捕まえて海軍に入れる人員徴集方法もことである。強制徴募は海軍だけに限定された問題ではなく、当時の小説やバラッドでも非難の対象として取り上げられた。また、怒った群衆による強制徴募隊本部の破壊や、水夫による船に乗り込んできた強制徴募隊の撃退が広く行われた。加えて、急進主義者や知識人はブリテン人の自由や奴隷問題と関連付けて強制徴募を批判した。強制徴募に関する日本での本格的な研究はほぼないことを踏まえ、本セッションではまず、強制徴募が行われた方法を紹介する。次に、上述のような抵抗や反対を受けたにも関わらず、強制徴募が公然と行われていた理由を議会史料、裁判史料、パンフレット、水兵の自伝を用いて明らかにする。

13:10-13:20 角田奈歩(学振特別研究員)

18〜19世紀転換期パリにおける衣服製造・流通構造−−注文服・古着・既製服

アンシャン・レジーム期パリでは,日用品製造・小売は同業組合(ギルド)単位で行われていた。服飾関係業の分業は細かく,衣服入手方法は煩雑で,高価な注文服か流行遅れの古着しか選択肢はなかった。一般にヨーロッパでは仕立工ギルドが古着を扱ったが,パリでは13世紀以来,古着商同業組合が独立して存在した。しかし1776年,財務総監チュルゴの改革と失脚により同業組合制度が再編成されると,古着商と仕立工の同業組合が統合され,パリの仕立工らは既製服販売の可能性を得る。一方,高級服飾品を扱うモード商という職業が再編成時に同業組合認可を受けたが,彼らも既製服を扱い始めた。続く革命期,ル・シャプリエ法により同業組合制度は廃止される。その後,注文服と古着双方の利点を兼ね添える既製服の製造・小売は,1820年代から確立されていく。このような過渡期にあった当時のパリの服飾品製造・流通構造を,注文服・古着・既製服という3つの軸から考える。

13:20-13:30 矢口啓朗(東北大学大学院)

ライン危機(1840年)を巡る国際関係

1840年7月15日のロンドン条約は、強大化したエジプトからオスマン帝国を救うため、ロシア・イギリス・オーストリア・プロイセンが中心となり締結されたものである。しかし、同条約は、エジプトの支援国であり、シリア地域に影響力を持っていたフランスを無視して締結された。そのためフランスでは条約に対する不満が高まり、同年7月末以降、フランスは度々ヨーロッパでの軍事行動をほのめかした。これがライン危機である。特にフランスと国境を接するオーストリア・プロイセンにとって、フランスの強硬姿勢は大きな脅威となり、両国はフランスに譲歩する姿勢を度々見せた。その一方で、ロシアやイギリスは、フランスが本当に戦争を始めることはないと確信していた。そのため両国は、フランスから譲歩を引き出し、問題を解決するための方法を模索していた。

ポスター発表では、特にロシアとイギリスが、ライン危機の解決を通して、どのように自らに有利なヨーロッパ国際秩序を形成したかについて、当時の露英の政治家が残した文書史料などから検討する。

13:30-13:40 正木慶介(エディンバラ大学大学院)

19世紀初頭イギリスのトーリ主義にみられる労働者階層に対する社会的包摂の試み
  ―保守系出版物の言説分析から―

19世紀初頭のイギリスでは、対仏ナポレオン戦争終盤より再び全国的に盛り上がりを見せ始めた急進主義の展開が大きな社会問題となっていた。近年の研究では、こうした政治運動の広がりを背景に「労働者階級」が形成された点、さらには当時の体制政党であったトーリ党と労働者階層が敵対的な関係にあった点が強調された。これに加え、労働者保守派協会の全国的設立や急進的保守主義の展開に具体的にあらわれたように、1832年に行われた第一次選挙法改正以降、保守党(トーリ党の後継政党)ははじめて労働者階層との親和的な関係性の構築を模索し始めたとも論じられた。このような研究史に対し、本報告は、1832年以前においてもトーリは多様な仕方で労働者階層を社会的に包摂しようとしていたのであり、こうした試みは1832年以降の保守主義の展開に対する前例および思想的背景となっていたということを明らかにする。考察のための史料としては、トーリ系の出版物(新聞・雑誌・パンフレット)を用いることとする。

13:40-13:50 長野壮一(東京大学大学院)

ナポレオン3世による社会福祉政策とその思想背景―1864年の団結法を中心に―

本報告は、第二帝政期における社会福祉政策の方針を解明する作業の一環として、団結権を認めた1864年の法律(団結法)の事例を分析する。ナポレオン3世の社会思想と第二帝政下の社会福祉政策との相関は従来から指摘されてきたが、そのことを史料に基づいて検証した研究は少ない。そこで報告者は、ナポレオン3世および法案審議の中心人物E・オリヴィエの思想を、言説分析およびプロソポグラフィの手法によって解明しようと試みた。使用した主な史料は、官報、法令集、ナポレオン3世およびオリヴィエによる言説である。

これらの史料を分析した結果、確かに法案提出のきっかけは民衆の境遇改善を旨とするナポレオン3世の社会思想であったものの、法案審議の過程でナポレオン3世の中間団体論(秩序の導入による社会解体の阻止)とは別の論理(国家権力から個人を保護する措置として団結権を主張する中間団体論)が用いられたことが明らかになった。ここから、本立法とナポレオン3世の思想との相関は部分的なものに止まり、むしろ本立法に第三共和政期の連帯主義につながるような中間団体論の萌芽が見出せるのではないかという展望が開かれた。

13:50-14:00 田村俊行(立教大学大学院)

性病医療の現場と伝染病法、1840〜1889年
―英国の売春管理制度と外科医の関係を再検討するために

本研究は、性病患者向け篤志病院のロックホスピタル(ロンドン)について、1840〜89年における患者数、収支、医師数を検討したものである。従来の売春管理制度(伝染病法)の歴史研究では、同制度が施行された1864〜86年を中心に、「道徳の医学化」による医師の権力拡大という視点から、男性医師と女性患者・女性運動家という対立が論じられてきた。しかしながら、これは男性権力を問題とする女性史の議論には貢献するものの、定点観測的な事件史の域を出ないものであった。これに対し本研究は、性をめぐる医療問題という視角から、19世紀の性病医療現場における半世紀間の傾向を提示することで、これまでの事件史的議論の限界を指摘する。本研究成果は、性病医療の世界における構造の変化とその中に生きる医業者たちを踏まえることなくして、同時代の売春管理制度を歴史的に理解することはできないと主張するものである。

近代II (10号館 X302)

司会:大津留厚(神戸大学)

12:30-12:40 佐伯彩(奈良女子大学大学院)

19世紀後半ハプスブルク帝国とガリツィア

1846年に起こったガリツィアの各地での農民蜂起とその後に誘発されたクラクフでの市民蜂起の失敗後、 ポーランド人たちによって蜂起失敗の反省がなされ、ウィーンへの恭順と地主や貴族による既存の支配の安定化を図る政治論が適用された。 一方、アウスグライヒ体制以降、ロシアとの国際関係の硬化、1880年のガリツィアでの大飢饉、増加する移民問題など、オーストリアを取り巻く情勢はどんどん悪化し始める。 こうした社会状況において、フランツ・ヨーゼフはオーストリアとロシアの緩衝地帯であり、重要な軍事的拠点であるガリツィアへの巡幸を行う。 これまでのガリツィア研究は、被支配者層のネイション研究や移民研究に集中し、ポーランド人とオーストリア社会との関係に関する研究は未だに不満足な状態にある。 本研究では、フランツ・ヨーゼフのガリツィア巡幸が、現地の住民たちにどのような感情を呼び起こしたのかについて考察する。

12:40-12:50 鍵谷寛佑(関西学院大学大学院)

19世紀後半におけるイギリス競馬統括団体ジョッキー・クラブの権威確立
   ―アドミラル・ラウス時代を中心に―

ジョッキー・クラブは、イギリスの競馬の社交クラブとして、18世紀中ごろに設立された。 19世紀になると、かつて上流階級が独占していた競馬には、中産階級や一般民衆が参加するようになった。 馬主として、また観客として、様々な階級が参加するようになった競馬であったが、その運営は上流階級を中心としたクラブ、特に、ジョッキー・クラブの主導のもとで行われた。 本報告では、19世紀後半、長きにわたってジョッキー・クラブの幹事として、クラブのかじ取りを担ったアドミラル・ラウス(Admiral Henry John Rous, 1795~1877)の時代について考察する。 ラウスの時代、ジョッキー・クラブはメンバーの閉鎖性を保ちながら、国内外に強い影響力を及ぼしていった。 特に、彼らの貴族ネットワーク、ジョッキー・クラブの定期刊行物であった競馬年鑑Racing Calendarにおけるメディアの活用などに留意しながら、19世紀後半のイギリス社会を描き出したい。

12:50-13:00 玉利泉(鹿児島県立古仁屋高等学校)

選挙権は誰のものか?−19世紀英仏選挙制度史からみえてくること−

英仏両国の選挙制度の実態やその背景となる選挙権論をまとめてみる。 まず,仏は革命を通じて人権宣言に象徴される民主主義の具現化としての成人男性普選への到達がイギリスに比べて早かったが, 実際には絶対王政時代の中央集権的傾向の影響もあり制限選挙を正当化する国民主権論や選挙権公務説が19世紀を通じて有力で,男性普選は形骸化された。 他方,英はフランス革命への為政者による復古的対応から戸主選挙権という民主主義への防波堤を築いて有産者支配を温存させた。 従って,ロッカンのマクロ・ヨーロッパモデルの承認と加入の関門からする英仏のモデルの相違(不可逆的だが不平等の公的認知期間が長い英型と速やかな市民権の普遍・平等化とそれと反する可逆性のありうる仏型)の指摘は的確だが, 実態に踏み込むとその差異は希薄化する。 この両者の差違の希薄化は,ロッカンの第三の代議制の関門に関する比例代表制−鏡のように民意を反映する選挙制度−への両国の抵抗の強さの類似性という指摘により19世紀英仏の制限選挙的実像,つまり有産者支配の温存の証左である。

13:00-13:10 清水領(フランス社会科学高等研究院)

19世紀中盤のフランスにおけるユダヤ教地方間の差異

フランスにおけるユダヤ教は1808年から1905年まで公認宗教制度の下に統一され、 領土内の信徒と政府の仲介となる中央長老会は宗教的マイノリティとしての立場を守るために地域間の差異は縮小させる傾向にあった。 特に、19世紀以降人口を増やしたパリの世俗的な「フランス人のユダヤ教徒」は、フランス全土のユダヤ教儀礼をキリスト教と似通った様式にする改革運動を進めようとした。 これに対してアルザス地方の伝統的ユダヤ教徒は街・村を超えて連携し、いかなる宗教的変化も許さない立場を表明するなど反対運動を行った。 一方で、ロレーヌ地方のメスのユダヤ教徒はアシュケナジー系の共同体としてアルザス地方と同じ括りで扱われることが多いが、宗教制度の近代的変化に対して比較的慣用である。 本発表は複数の一次史料を用いてパリとアルザス地方、メッスにおけるユダヤ教改革運動の浸透を考察し、各地方における歴史的背景や特色と合わせて考える。

13:10-13:20 北川涼太(岡山大学大学院)

海相チルダースによる海軍再編計画とイギリス帝国

1869年、第一次グラッドストン内閣の海相チルダースは大規模な海軍再編計画に着手した。 それは艦艇・兵員の縮小による経費削減を図るだけでなく、旧式艦や余剰となった海外派遣艦艇を整理し、主力艦である航洋型装甲艦を建造するなどの積極的意図も含まれていた。

しかしこの改革を、海軍史の枠内における単なる海軍再編計画の一つとしてのみ理解することは不十分である。 このチルダースの改革はちょうどイギリス海軍が技術面で木製帆走から鉄製汽走へと移行した時期、 そしてインド洋や東シナ海などを含めた文字通り世界の海を活動範囲とするようになった時期に実施された。 これらとの関連を見過ごすわけにはいかないのである。

そこでこのポスター発表では、イギリス議会史料などを活用しつつ、 画期的な技術革新や領土拡張(特にアジアでの)が進展・定着しつつあった当時のイギリス帝国の状況と関連させながら、このチルダースの海軍再編計画の内容を検討する。

13:20-13:30 犬飼崇人(学習院大学)

フランス第三共和政期における学校衛生:リヨンの初等学校を中心として

本報告では、第三共和政期のフランスにおける学校衛生に対する取りくみについて、1879年に設置が可能とされた衛生局に焦点を当てて検討する。 その際、衛生局が全国でもっとも有効に機能したと評価されるリヨンを対象とする。

フランスにおいて1880年代から20世紀初頭までの時期は、伝染病の流行により多数の死者が出た時期であるのと同時に、初等学校の無償化および教育義務化が定められて学校が次々と建設される時期でもあった。 リヨンのような大都市は衛生局を設置して都市衛生行政の一本化を試み、衛生局は次第にその組織と業務の範囲を拡大していった。 学校は伝染病の感染を引きおこしかねない場所であったため、リヨン市当局は学校衛生に関する業務も衛生局に編入し、医師による健康診断や、学校看護士の配置、長期休暇中の貧しい子どもの健康改善を目的とした林間学校活動を組織した。 衛生局はこうした活動を通じて児童の健康管理を目指し、学校は病気の予防・発見の場として位置づけられていった。

13:30-13:40 山内由賀(京都大学大学院)

19世紀フランスの女子教育における宗教教育をめぐって

本発表は、フランスの女子教育における宗教教育の役割およびその変遷を考察するものである。 フランスでは1880年のカミーユ・セー法によって女性リセとコレージュが創立されるまで、主として世俗の寄宿学校あるいは修道会経営の寄宿学校が女子教育を担っていた。 特に修道院寄宿学校は17世紀に端を発する伝統的な女子教育形態であり、1789年の革命による修道院の閉鎖という危機を乗り越え、19世紀には急激な増加を見せた。 この増加の背景には、社会の再キリスト教化を目指すカトリック教会の狙いがあり、20世紀に至る女子教育をめぐる教会と国家のヘゲモニー闘争へと発展する。

本発表では、19世紀フランスの女子教育修道会の中心的存在であった聖心会の『学習指導要領』を分析することで、宗教教育が徳育のみならず知育としても女子教育の根幹を成しており、 公教育化によって教会の手から引き離されることとなる女子教育をめぐる教会と国家の争点を明らかにする。

13:40-13:50 内海咲(一橋大学大学院)

19世紀「消費都市」におけるファッションの受容
   ―ヴィクトリアン・サーヴァントと女主人の関係に着目して―

本報告の目的は、衣服産業が大きく転換してゆくイギリス19世紀中期の「消費都市」ロンドンにおいて、 労働者階級がブルジョア的ファッション文化へと排除や差異化を伴いながら選択的に包摂される過程を、 近代ファッション成立の階級的要因として明らかにすることである。 近代ファッション成立の背景として、労働者階級がファッションに何らかの形で関わり始めていたと想定し、 近代ファッションをリードし始めていた主体を明らかにした上で、労働者階級がいかにしてファッションという近代文化を獲得していったのかを事例を通して検討する。 具体的には、労働者階級のひとつの職業集団を形成していたサーヴァント(女性家事使用人)を対象に、 彼女たちが生きた生活空間や生活関係を、ブルジョア女性の生活構造と比較することでより鮮明に浮き上がらせ、 労働者階級がブルジョア的ファッション文化へ包摂されていく過程を描き出し、その歴史的意味を近代ファッション形成の一端として考察する。

13:50-14:00 鈴木周太郎(鶴見大学)

コルセットを着る女性、つくる女性
    - ウースター・コルセット・カンパニーからみる20世紀転換期のジェンダー秩序

本発表では20世紀転換期アメリカのジェンダー秩序について、ウースター・コルセット・カンパニー(以下WCC)を事例に考察する。 WCCは1898年にマサチューセッツ州に巨大な工場を建設以降、全米そして世界でコルセットを販売するこの産業の中心的存在となった。 特徴的であったのはこの会社が近隣地域の何百人もの女性労働者を雇用しコルセット製造に従事させ、販売員を育成するための教育機関を併設したことである。 WCCは「コルセットの製造・販売に関わる労働者は女性であるべき」という理念を持ちながら、雇用した女性たちはコルセットとは無縁の生活をおくる移民たちであった。 またWCCは女性移民労働者たちを愛国者としてアメリカ化することを試み対外的にアピールしていった。 本発表ではジェンダーと階級の交叉した現場であるWCCについて、会社やウースター市が残した記録を中心にパンフレット、カタログ、ポストカードといった視覚資料も用いて検討する。

現代I (10号館 X306)

司会:池田嘉郎(東京大学)

12:30-12:40 土田映子(北海道大学)

アメリカ合衆国における科学・技術と移民集団の文化表象:
   スウェーデン系移民を題材に

この発表では、移民がホスト社会に適応する過程で、ホスト社会において優位な価値体系をどのように自集団の文化表象に接合 し、社会的認知の獲得を試みてきたかを、19世紀末から20世紀初めのアメリカ合衆国におけるスウェーデン 系移民を題材に検討する。スウェーデン系移民社会の中で、政治的・経済的背景の異なる複数の集団が、科学・技術による理想社会の実現とい うアメリカ主流社会のイデオロギーを取り込み、それを自集団の文化表象に利用することで社会の周縁からより主流的地位への接近を試みると 同時に、そうしたイデオロギーを強化する役割をも果たしていたことを、@自由・平等の国という合衆国の建国原理との関係、A合衆国国民史 への介在の主張との関係、B社会改革を目指す労働・教育運動との関係の3つの局面から紹介するものである。

12:40-12:50 佐下橋容代(一橋大学大学院 )

真珠から見る日米関係 ―19世紀末から開戦までのアメリカにおけるミキモト社の展開

本研究では、日本の真珠養殖産業の礎を築いたミキモト社のアメリカ進出の歴史を、社史と創設者、御木本幸吉らが残した書簡や伝記をもとに明らかにし、御木本がアメリカの消費文化にいかに適応しようとしたのか、日米関係が悪化するなか戦争回避のため民間外交にいかに関わったのかを検証する。御木本の海外進出は、世界各地で開催された万国博覧会への出品を通じ展開したが、当初より御木本はアメリカ市場を重視していた。渋沢栄一らの協力のもと1893年にはコロンビア万博に出品、1904年には初の真珠輸出を実現、ニューヨークには1927年に支店が開設された。本研究では、1933年シカゴ万博出品の「ワシントンの生家」、戦前最後の博覧会となる1939年ニューヨーク万博出品の「自由の鐘」に関する分析を含めて検証し、アメリカ展開の特徴や養殖真珠受容の過程を、当時のアメリカ大衆消費社会における生活史、服飾・宝飾史、ジェンダー史とも関連づけながら考察する。

12:50-13:00  金澤宏明(明治大学兼任講師)

20世紀転換期の合衆国政治マンガの機能と役割
   ──島嶼領土他者表象の視覚パラダイム分析──

20世紀転換期のアメリカ合衆国の帝国主義政策/島嶼領土獲得運動における、当時のアメリカ人主流派の島嶼領土先住民に対する他者認識を考察するため、アメリカの紙誌に掲載された政治マンガを史料として分析を行う。 政治マンガのメディア機能の先行研究を活用しながら、同時代の地峡運河建設計画、ハワイ併合問題、キューバ問題、フィリピン問題を並列的に検討し、 カトゥーニスト(作家)個人の作家性に寄らない諸作品で共通する他者表象/国家表象の記号が内在することを確かめる。 ここでは、特に図内の記号的な視覚パラダイム(人種/身体の特徴やカラー・ライン、ジェンダー、年齢、姿勢や行動、服装、図内の相対的な大きさ、位置などの序列化)を解析するとともに、 当時の優生学的視点に基づく人種や、「男らしさ」や「女らしさ」などの序列化(ジンゴイズムやジェンダーの規範)といった類型が存在したことを緻密に把捉する。

13:00-13:10 大和久悌一郎(川村学園女子大学非常勤講師)

第一次大戦末期のイギリスにおける労働政策
   ―シェフィールドにおける労働時間規制の試みから

第一次大戦期のイギリスについては、動員にともなう国家による社会介入の時期として知られ、近年では各産業での大量生産体制の導入や、それにともなう労働および生活社会への影響について注目が集まっている。 他方、そうした介入については、従来より知られる労働希釈における女性労働者への影響にとどまらず、熟練労働者についてもみられ、 とくに戦争終盤となる1917年以降には、生産効率の向上を目的に就労および生活にかんする管理が試みられた。 本報告はそうした熟練労働者を対象とした労働問題の事例として、労働時間の管理をとりあげ、 とくにシェフィールドで試みられた工場法改正を目的とした地域内での社会実験を検討する。 とりわけ、同地の地域委員会が作成した報告書などから、 労働時間の短時間化および就労規則の徹底化とそれによる生産性および社会生活への影響についてのデータを図示し、 大戦下で試みられた労働政策の一例を示す。

13:10-13:20 鈴木俊弘(一橋大学大学院)

記念のためにトリミングされる歴史
   ──米国の祝祭活動に潜行する入植表象と人種論の言説的交差について

本発表は、米国のデラウェア入植三百周年記念祭(1938)で発行された記念切手の意匠から、20世紀米国の文化領域における人種言説を読解する議論である。 20世紀の米国の祝祭活動は、17世紀欧州諸国による北米入植事業を米国民史の枠組みで記念する活動から始まったが、 そこには記念切手という公的空間に流通する新規な図像学的媒体が付随し、意匠には関与する者たちの同時代的な意志が凝縮された。

デラウェア入植祝祭に国賓参加したフィンランドの記念切手は、「若者が開墾地で切り株を抜く」という奇妙な意匠で発行された。 その原画は焼畑の耕作文化を有するフィン系入植者が17世紀の原野を焼畑開墾する様子を描いた作品だったが、 記念切手化にあたって火の痕跡は除去され、伐採開墾の風景を錯覚させるようトリミングが施された。 その理由には「ノマディズムと火」という米国特有の文化論的な人種言説が挙げられる。 米国史のなかで森林を焼く行為の表象は、非白人種の未開性と本性的な破壊衝動を喚起する隠喩だった。 しかもフィンランドのフィン人、とくに米国に移民したフィン人は当時の米社会のなかで、言語系統学説から「白人性に疑いある」白人集団と考えられており、 かれらは入植祝祭への参加によって米国民史の祖系統として認知され、社会に「完全なる白人性」を獲得しようとしていた。 記念切手の意匠は、このような見えざる同時代的な意志を反映したものであった。

13:20-13:30 紀愛子(早稲田大学大学院)

ナチ体制期ドイツにおける「安楽死」作戦関与者たちの人物像

ナチスが主として精神障害者に対して行った大量殺害、通称「安楽死」作戦には、多くの医師や看護師が関与していた。 彼らは何故、本来彼らが 治療・看護すべき者たちの殺害に加担し得たのか。 そこには、全体主義や人種主義といった政治的要因だけでなく、ヴィルヘルム期からナチ体 制期にかけての激動の時代に関与者たち自身の中で育まれてきた何らかの内的要因がかかわっているように思われる。 本報告においては、主として「安楽死」作戦関与者たちに対する裁判の関連史料をもとに、彼らの生い立ちや経歴といった人物像を探る。 彼ら が、ヴィルヘルム期やヴァイマール期、ナチ体制期において、どのような環境に生まれ、どのような経験を積んできたのかを分析した上で、共通している何らかの要素を見出したい。 その共通する要素こそ、医療従事者が障害者の抹殺という思想を受容するに至るプロセスを考える上 で、重要な鍵となる筈である。

13:30-13:40 菊地大悟(東京大学大学院)

戦後東ドイツにおけるヘルムート・フォン・ゲルラッハ協会(1948年〜1953年)

旧ドイツ東部領の喪失とそれに伴う大規模な住民移動は、戦後からドイツ統一まで東西両ドイツにおける争点の一つであった。

戦後すぐにドイツとポーランドの共産主義政党が歩み寄ることはなかったが、冷戦の本格化によって、 ドイツとポーランドの共産主義政党の関係を改善させようとの機運が高まった。 そのような中、1948年、ドイツ社会主義統一党(SED)とベルリンのポーランド軍事使節によって「ヘルムート・フォン・ゲルラッハ協会(1950年に「平和と善隣関係のためのドイツ=ポーランド協会」と改称)」が創設された。 この協会は東ドイツで1953年に解散するまで、ポーランドに関する情報伝達・プロパガンダ機関、被追放民・難民(東ドイツでは「移住民」と呼ばれた)の組織、 ポーランドから帰還した戦争捕虜の組織、党幹部の養成機関としての性格を擁した。

本報告では、協会の活動内容、人員構成などの変遷をたどり、東ドイツにおけるSED体制の確立と協会の役割や社会における位置付けの変化のプロセスを明らかにする。

13:40-13:50 塚本遼平(慶應義塾大学大学院)

西ドイツにおけるドラッグ政策の展開
   ――1970年代後半〜80年代初頭の麻薬法改正議論を中心に――

本報告の目的は、1970年代半ば頃から特に若者らの間で広まったヘロイン乱用問題に対し、 西ドイツがいかなる政策をもって克服しようとしたのかについて、1981年に成立した改正麻薬法をめぐる議論を中心に考察することである。 同法は、「刑罰ではなく治療を」という政策理念の下、厳罰化だけでなくドラッグ依存者治療の促進を目的として制定された。 本報告は、その背景に存在した違法ドラッグの使用や中毒の拡大状況、それに関する政治政党や中央省庁の問題認識、そして社会福祉組織や自助組織、 学問界といった様々な領域を巻き込んで行われた政策議論の展開を具体的に明らかにすることで、高度経済成長終焉後の西ドイツ社会が抱えた問題の歴史的分析に資したい。 本報告での考察は、連邦議会史料の他、連邦公文書館所蔵の担当省庁ないし機関の一次史料や、同時代的学術文献・雑誌等に基づくものである。

現代II (10号館 X307)

司会:浜井祐三子(北海道大学)

12:30-12:40 杵淵文夫(東北大学大学院)

世紀転換期ドイツにおけるA.ザルトリウスの対アメリカ通商政策論

20世紀初頭ドイツとオーストリア=ハンガリーにおいて、経済学者ユリウス・ヴォルフ(Julius Wolf)らの指導する「中欧経済協会」が、 “欧州統合”を最終目標に掲げて地域統合を推進したことが、Hubert Kiesewetter氏[2008]の研究等で明らかにされた。 この運動については、経済発展著しいアメリカ合衆国の台頭に対するヴォルフらの危機感を反映し、 アメリカへの敵対的姿勢を鮮明にしたことが指摘されている。 19世紀末ヨーロッパで醸成されたアメリカに対する危機感を欧州統合構想と結びつけ、 さらにヴォルフに直接的に示唆を与えたと推測される人物が、彼と親交のあった経済学者A.ザルトリウス(August Sartorius von Waltershausen)である。 本報告では、世紀転換期にザルトリウスが展開した対アメリカ通商政策論を分析し、欧州統合が提起されるに至った背景を明らかにしたい。

12:40-12:50 門間卓也(東京大学大学院)

1930年代クロアチアにおけるファシズム組織ウスタシャのナショナリズム

本報告は、ユーゴスラヴィア王国時代のクロアチアに現れたファシズム組織ウスタシャの政治思想を扱い、 その内部の「ナショナリズム」の形態及び政治的影響力について考察するものである。 1930年代のクロアチア民族政治家及び知識人の間では、自民族を巡る国際的環境及びユーゴ王国内部でのセルビア民族との関係を考慮して、 ウスタシャ及び農民党に代表される二つの「ナショナリズム」を巡る言説が展開されていた。 そしてその言説内部には、「小さな民族mali narod」というクロアチア民族を表象する概念に基づき、 自民族のユーゴ王国からの独立又はセルビア民族との協調という政治的選択に係る対立軸が浮上することとなった。 以上の言説の分析によれば、当時のクロアチア社会において極右民族主義思想に対する賛同が見られた背景として、 この「小さな民族」を巡るウスタシャの「ナショナリズム」の政治的影響力が指摘できる。

12:50-13:00 星野友里(早稲田大学大学院)

1939-43年 南ティロールにおける国籍選択結果と移住

本研究は、第一次世界大戦後に生じた少数派民族問題という枠組みの中で「民族ドイツ人Volksdeustche」の一部である南ティロールのドイツ語系住民に注目するものである。 両大戦間期を通してドイツとイタリアが友好関係を構築する上で障壁となっていた南ティロールのドイツ語系住民問題を解決するべく、両国は1939年6月23日に「ベルリン協定」を締結し、 南ティロールのドイツ語系住民に対してドイツ・イタリアどちらかの国籍を選択するよう求めた。 その結果、移住が義務付けられたドイツ国籍選択者は約20万人であったにもかかわらず、移住者は約7万5,000人に留まった。 移住が停滞した背景には、第二次世界大戦の伸展や財産補償の問題以外に、ドイツとイタリアの下で南ティロールにもたらされた「国籍選択」という特殊な状況の影響が考えられる。 本報告では、1939年に行われた国籍選択の結果をもとに、1940年1月からドイツが北イタリアを占領する1943年9月までの間に実施された移住の実態を検討することによって、 南ティロールにおけるドイツ語系住民の特性の一端を提示することを目指している。

13:00-13:10 金泓槿(大阪大学大学院)

派独韓国人看護婦の派遣過程‐在独韓国人社会の黎明期(1957−1976)

現在ドイツには約3万人の韓国人が居住している。韓国人のドイツへの移民は20世紀初頭から主に留学を目的とした、 少数の人々によって行われてきたが、在独韓国人社会が本格的に形成されたのは1957年から1976年まで行われた看護婦(介護スタッフ)派遣が決定的なきっかけとなった。

ドイツでは戦後経済復興の必要性に応じて、不足していた労働人力を補うために1955年から様々な国と協約を結び、いわゆる「ガストアルバイター」を募集していたのは周知の事実である。 しかし、K. シェーンヴェルダー(2004)の研究によると、ドイツでは当時外国人労働者を募集する際、ヨーロッパ諸国出身者を優先的に雇用したという。 では、韓国人看護婦の派遣はいかに可能になったかという疑問が残る。 本報告ではこれに関する研究資料と当時の新聞資料、そして看護婦の派遣に重要な役割を担当した李修吉(イ・スキル)博士の回顧録の内容に基づいて、その派遣過程を再構成することを目標とする。

13:10-13:20 橋本泰奈(東京大学大学院)

戦後西ドイツの外国人労働者政策におけるナチ時代との制度・人的な連続性

西ドイツ政府は、急速な経済成長と国内の労働力不足を背景に、1955〜1973年に複数国と二国間協定を締結し、多数の外国人労働者を受け入れたことは、周知の通りである。しかし、前時代にナチ体制下で約1,200万人の外国人労働者を自国の戦時経済に強制動員し、戦後にその責任を追及されるなかで、終戦から10年にして外国人労働者を再導入することは、いかにして可能だったのか。本報告では、この問について、西ドイツの外国人労働者政策におけるナチ時代との制度・人的な連続性を分析し、その背景をなす議論と取り組みにおいて、ナチ体制下の外国人労務動員の経験と記憶が戦後西ドイツの政策形成に与えた影響について検討する。その際、制度・人的な連続性を示す事例、すなわち「外国人被用者令」(1933年)と「外国人警察令」(1938年)の再有効化、及び第二次世界大戦下で労働配置総督フリッツ・ザウケルの秘書を務めたヴァルター・シュトートファングの再雇用に着目する。

13:20-13:30 原田桃子(東北学院大学大学院)

1970年代イギリスにおける移民政策と「帝国からヨーロッパへ」の移行

第二次世界大戦以降、イギリスには旧植民地からの移民が流入し、人種差別が社会問題化した。その対応としてイギリスの歴代政府は、国内の人種差別を禁止する一方、彼らの流入規制を行った。1948年国籍法で彼らに認めていたイギリスへの自由入国と定住の権利を、1962年コモンウェルス移民法によって制限し、改正を重ね、ついには1971年移民法によって、イギリス本土との血縁的繋がりが認められる者のみを入国可能としたのである。

これまでの研究では、こうした移民政策について、イギリス社会や政府の人種差別意識の表れ、あるいは「帝国からヨーロッパへ」の移行の結果としている。しかし、1962年コモンウェルス移民法制定までに議論が集中し、それ以降については議論の余地が残されている。

そこで、本報告では、1971年移民法の制定過程と、EC加盟に伴う移民に関する議論を追いながら、イギリスの「帝国からヨーロッパへ」の移行が、移民政策に与えた影響を検討する。

13:30-13:40 岡本宜高(ロンドン大学クイーン・メアリー校)

キャラハン政権期のイギリス外交とヨーロッパ冷戦、1976-79年

本発表は、1976年から1979年のキャラハン労働党政権期の対ヨーロッパ外交政策を、ヨーロッパにおける冷戦の展開に着目して分析するものである。 労働党が政権を担当した1974年から1979年の間、とりわけキャラハン政権期のイギリス外交政策は、 その前後のヒース、サッチャー両保守党政権期のそれと比較すると、注目される事は少ない。 しかしこの時期、米ソ関係の冷却化とともに、ヨーロッパでも東西両陣営間の軍事的緊張が高まるなど、 東西冷戦下で1970年代を通じて進展してきたデタントは重大な岐路に立たされていた。 その一方、イギリスのヨーロッパ安全保障への関与は、深刻な経済危機により大幅な縮小を余儀なくされていた。 本発表では、以上のようなヨーロッパ国際関係の変容に直面したキャラハン政権が、どのような外交政策を構想し、 そしてそれが西側同盟内の安全保障政策の決定過程にいかなる影響を及ぼしたのかを、 主としてイギリス国立公文書館所蔵の一次史料に依拠しながら検討する。

13:40-13:50 長谷川雄之(東北大学大学院)

ポスト共産主義国家・ロシア連邦における制度設計のプロセス
   −国家安全保障政策決定機構を中心として−

1991年12月のソヴィエト連邦の崩壊を機に新生ロシア連邦の制度設計の基礎となる新憲法制定作業が加速した。 本報告では、ロシア連邦憲法において定められた国家権力機関として、 現代ロシアの政策決定過程に大きな影響力を及ぼしているロシア連邦安全保障会議の制度設計のプロセスを、 憲法協議会速記録(註1)や憲政史に関する刊行史料(註2)等を用いて明らかにした上で、 議会の安全保障会議に対する監督機能、大統領の行政組織編成権、 機密保全と情報アクセス権などロシア連邦安全保障会議が抱える諸問題について、法制史学の観点から分析・検討を行う。 ロシア連邦を含む諸外国の安全保障会議ないし国家安全保障会議(NSC)に関する研究史の蓄積は薄く、 本報告は、現代政治機構の論点を提示することも命題としている。