Contents:



小シンポジウム要旨



                        


小シンポジウム1
「ヨーロッパ、世界、そして「キリシタンの世紀」の日本
―インテレクチュアル・ヒストリーおよびグローバル・ヒストリーの視点から―」

企画責任者 根占献一



【趣旨説明】 根占献一


 インテレクチュアル・ヒストリーの視点を活かして、同時代の近代ヨーロッパと世界、日本―16,7世紀がその中心となり、日本では時に「キリシタンの世紀」と呼ばれる―における異同性を18世紀位まで考察し、グローバル・ヒストリーの意義を考える機会としたい。
 日本の「キリシタンの世紀」と呼ばれる時代は、グローバル・ヒストリーのなかでこそ考察・検討に値する。その世紀末ころに起きた島原・天草の乱には「終末論」的傾向があるとされるが、キリスト教をもたらしたヨーロッパではその終末論はいかに現われ、どのような意義があったのだろうか。本シンポジウムでは好例となるパラケルスス主義に見て行きたい。そしてこのような議論の中で、グローバル・ヒストリーとインテレクチュアル・ヒストリーが相互に関わる論点が明らかになるであろう。キリスト教伝来によりインテレクチュアル・ヒストリー面でも注目される議論、たとえば「霊魂不滅の問題」などが生じたからである。
 他方で、この時代は日本からの海外派遣にも注目されなければならない。天正使節と慶長使節である。これらの中に当時の日欧交流の在り方が見て取れるだろうし、両使節に関わった修道会の違いが何か両使節の海外交流に相違をもたらしはしなかっただろうか。またヨーロッパの海外発展、布教活動を見ていく際、アジアだけでは不十分であり、新大陸、とりわけ南米地域に注目する必要がある。特にイエズス会の役割が大きかったため、アジア、日本との比較検討のうえで示唆が与えられる点が多々ある。
 こうして発表の各視点から、それぞれの世界の特徴が明示されてグローバリゼーションの進む時代の関連性と特異性が見えてこよう。


【報告1】 初期近代ドイツ語圏のパラケルスス主義と終末論
         ―学問の進歩・社会改革・救済史―           村瀬天出夫


 いわゆる「科学革命期」には中世以来のアリストテレス主義スコラ学、またそれに基づく大学医学(ガレノス主義医学)が批判・相対化されていき、経験主義的な学問を求め、錬金術的・化学的な医学(医化学)を追求するパラケルスス主義が台頭する。16世紀後半に現れたこの動きは同時代を終末の時代と捉えつつ、学問改革を進めるにあたって同世紀初頭の医師パラケルススを新たな医学の権威として英雄化・神秘化していく。また医学的な錬金術の勃興を終末における神の恩寵と見なし、「真のキリスト教」的な学問による旧来の「異教」的な学問の批判・打倒が間もなく完成するという歴史観(救済史)を用意し正当化していった。17世紀に入るといわゆる「宗派化の時代」における信仰分裂を背景として、学問批判のみならず教会批判を強めていく。これらの潮流を明らかにするためパラケルスス主義者たちの歴史観、時代意識、自己像、終末論的な世界観を検討する。


【報告2】 天正・慶長遣欧両使節を通じた日欧文化交流
                                           伊川健二


 天正・慶長遣欧両使節は、日本史にいう中近世移行期に、日本人がローマを最終目的地として派遣された計画である点において共通し、その行程および関係史料の研究、出版物等は枚挙にいとまがない。他方、これら、とりわけ前者を分析的な研究対象としたものはほとんど存在しない。
 そこで本報告では、両使節をヨーロッパにおける日欧人の直接対話の最初期の事例としてとらえ、ヨーロッパの日本認識にどのような変化をもたらしたのかを考察したい。これらの機会には、日本人も旅の記録を残したことがしられているが、散逸等により詳細は定かではない。
 以上を前提に、日欧の直接関係が成立する以前のヨーロッパにおける日本情報を比較材料として、使節たちがもたらした情報が、同時期のヨーロッパ情報にどのような影響を与えたについて検討していく。


【報告3】 スペイン領南米ラプラタ地域におけるイエズス会士の宣教活動
     ―グローバル・インテレクチュアル・ミリタリー・ヒストリーとの関連から―                                          武田和久


 1540年ローマ教皇の正式認可を受けたイエズス会は、カトリックとプロテスタントの対立が激化し、オスマン帝国の脅威が忍び寄る近世ヨーロッパで誕生した修道会である。総会長イグナチオ・デ・ロヨラとその同志たちはヨーロッパを取り巻くこうした状況を深刻な危機と捉えていた。イエズス会士たちはこの状況の打開のために、布教、教育、慈善など、ヨーロッパ内外で様々な活動に取り組んだ。
 ロヨラが元軍人であり、対抗宗教改革の急先鋒とされるなど、イエズス会は軍隊さながらの戦闘的な修道会と厳しく批判された時代もあった。批判の一部は偏見や中傷だったが、近世に生きた会員自身が残した史料を紐解けば、「神のより大いなる栄光のために」必要に応じて世俗的な手段を実践する会員が存在したことがわかる。
 本発表では、軍事、その組織的な教練、地球規模でのこの2点の展開という観点から、近世イエズス会の宣教活動を、スペイン領南米ラプラタ地域(現在のパラグアイ南東部、アルゼンチン北東部、ブラジル南部、ウルグアイからなる領域)を事例として報告する。

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小シンポジウム2
「異文化交流と近代外交の変容」

企画責任者 桑名映子



【趣旨説明】 桑名映子


 自国の文化を外に向けて発信することにより、国際世論に働きかけようとする外交戦略は、今日「広報文化外交」(パブリック・ディプロマシー)あるいは「対外文化政策」(クルトウーア・ポリティーク)などと呼ばれ、欧米のみならず日本や中国を含むアジア諸国においても、対外政策の重要な柱となりつつある。
 歴史的にみても、文化は国際関係において重要な役割を果たしてきた。ウィーン会議後の「旧外交」全盛期には、フランス語を軸としたヨーロッパ教養層の言語的・文化的均質性が、一時的にせよ会議体制を通じた「バランス・オブ・パワー」の達成を可能にした。その一方でヨーロッパ諸国からアジアやアフリカ、南アメリカなどの「辺境」に派遣された外交官や行政官は、異質な言語や文化、宗教的伝統を理解し、現地の慣習に配慮しつつ外交活動や植民地行政を遂行する必要に迫られた。その結果、均質性を前提とするヨーロッパ中心の古典的な外交理念は見直しを迫られ、両大戦間期には各国政府が競って組織的な対外文化宣伝活動を展開するようになり、政府機関を中心とする戦後の文化外交(カルチュラル・ディプロマシー)へと続く道が開かれた。
 この小シンポジウムでは、文化戦略をめぐる近代外交のこうした大転換において、「辺境」の非キリスト教圏に派遣されたヨーロッパ人の「異文化体験」が果たした役割に注目し、イギリス、フランス、オーストリア=ハンガリー、ドイツの4カ国について国際比較を試みる。予定している研究報告はそれぞれ、これら4カ国の外交官ないし植民地行政担当者が、あるいは個人的関心から、またあるいは本国政府の指示のもとに行った文化交流活動および対植民地政策を分析する。


【報告1】 イギリスの外交力と博物館・美術館
                                         松本佐保


 大英博物館所蔵品のエルギン・マーブルやロゼッタ・ストーンが英国の外交・軍事力により収集されたことはよく知られているが、これら文化遺産が具体的にどのような交渉と、どのような輸送手段で大英博物館に辿り着いたか、それが外交政策とどう関係したかを明らかにした研究は多くない。本報告では大英博物館所蔵メソポタミアの文化遺産に焦点をあて、有翼人面牡牛像などの遺跡を発掘してコレクションを確立した外交官ヘンリー・オースティン・レイヤードの活動を中心に見ていく。レイヤードはまたナショナル・ギャラリーのルネサンス絵画収集にも尽力している。19世紀英国で政治・外交分野で活躍する人物と博物館・美術館関係者には人的な繋がりと重複があり、博物館・美術館のコレクション確立と外交政策がどの様に連動していたかを明らかにする。大英博物館の古代遺跡部文書館所蔵の手書き文書や、ナショナル・ギャラリー文書館所蔵の議事録などを第一次史料として使用する。


【報告2】 幕末フランス外交代表の異文化経験
                                         野村啓介


 アヘン戦争を主な契機として極東進出を強化したフランスは、アジア地域にさらなる軍事的・商業的拠点を獲得するなか、わが国とも1858年10月に修好通商条約(安政の五箇国条約)を締結して外交関係を樹立した。これによりフランス帝国政府は、わが国に常駐の外交代表を派遣することとなり、デュシェーヌ・ド・ベルクールとロッシュとがあいついで赴任した。
 本国政府、とりわけ現地赴任の外交官にとって、わが国との外交関係は未知の異文化との遭遇をも意味したはずである。それでは、このときフランスはいかなる外交体制のもとに日本との関係を構築・維持しようとし、またその駐日外交代表は日本をどのように観察し、いかに任務を遂行しえたのだろうか。本報告では,フランス外務省史料に依拠しつつ、異文化と対峙する外交代表機能に注目することにより、フランスの対日外交にみる異文化経験の具体相に迫り、極東における帝政外交の諸問題を考えてみたい。


【報告3】 オーストリア=ハンガリー代理公使の見た明治日本
                                         桑名映子


 本報告は、1892年春から4年間、日本に駐在したオーストリア=ハンガリー代理公使ハインリヒ・クーデンホーフを例として、日本をはじめアジア諸国に対する「異文化理解」の一つの可能性を提示する。このハインリヒと日本女性青山みつの間に生まれた次男栄次郎が、のちにパン・ヨーロッパ運動の指導者となるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーである。そのためこれまでの研究では、ハインリヒは主として「光子」の夫、リヒャルトの父として言及され、外交官としての活動や業績に光が当てられることは少なかった。この報告では、ウィーンの帝室・宮廷・国家文書館に所蔵されている本国外務省宛報告書類、チェコ共和国プルゼニュ地方文書館所蔵の「クーデンホーフ家文書」に含まれる家族宛書簡・文書類を手がかりに、日本および非西洋世界に対するこの人物の視角を、日清戦争期の外交指導者、陸奥宗光や伊藤博文との交流とあわせて検討する。


【報告4】 ヴィルヘルム・ゾルフとドイツ領サモア統治
                                         中村綾乃


 ヴィルヘルム・ゾルフは、ドイツ領サモアの総督、植民地長官、外務大臣を歴任し、第一次世界大戦後に駐日大使として来京した。知日家であり親日家、1920年代の文化外交の立役者として知られている。晩年のゾルフは、ヒトラー政権と対峙し、ナチズムの対抗軸を形成したが、1936年に病死した。サモア総督としての経験は、彼の植民地統治理論を形作り、日本の植民地政策にも影響を与えた。
 19世紀中葉、欧米列強の進出とともに、サモアでは「混血児」や「ハーフカースト」と呼ばれる人々の人口が増加した。ドイツ統治下では、労働需要の高まりとともに、多くの中国人が年季労働者としてサモアへ移入した。本報告では、ドイツ領サモアにおいて、ゾルフが主導した「混血児」と中国人労働者の法的身分をめぐる政策を検討する。さらに、この「混血児」と中国人労働者の位置づけが同じドイツ人同士の社会層、宗派や党派の対立に投影されていく過程に注目していく。

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小シンポジウム3
「歴史認識の越境化と「公共史」―博物館、メディア、教科書―」

企画責任者 剣持久木



【趣旨説明】 剣持久木


 歴史認識問題が近年ますます先鋭化する東アジアとは対照的に、ヨーロッパにおいては、東西冷戦終結と地域統合の進展のなかで、さまざまな「公共史」Public historyの実践が行われている。とりわけドイツとその周囲の国、フランスとポーランドとの関係を中心とした様々な取り組みが注目される。歴史認識問題を公共史の問題として捉え直すならば、国際的次元と国内的な次元の二つが存在すると考えられる。本シンポジウムにおいては、報告者のこれまでの調査、研究の成果を踏まえて、この二つの次元における公共史の実践を総合的に検討し、歴史研究と社会(メディア)のニーズや表象との相関関係という視点で考察する。国際的には、国境を越える歴史教科書、博物館などの状況を、国内的には、多様なメディアを通じた歴史研究の成果の啓蒙/受容の関係性を検討する。具体的には、ドイツ・フランスの長年の係争地であったアルザスの歴史博物館、ドイツ・ポーランド間で現在も懸案の追放難民に関する博物館の状況、そしてドイツ国内については、現代史を扱ったTV歴史番組など、メディアにおける歴史の表象の現状を分析する。さらに、2015年中に刊行が予定されている、ドイツ・ポーランド共通教科書に関する最新情勢も検討する。いわば、歴史認識をめぐってヨコ(国境)とタテ(専門家/一般)に存在して来た境界を越える可能性についての研究である。


【報告1】 ヨーロッパ国境地域の記憶の場
         ―アルザス・モーゼル記念館を例に―          西山暁義


 独仏国境地域であるアルザス地方は、対立から和解へという両国の関係を反映し、現在ではよくヨーロッパ統合の象徴的な地域であると見なされている。そこでは、地域の歴史はどのように記憶されているのであろうか。本報告では、2005年に開館したアルザス・モーゼル記念館を題材として、その設立に至る過程、展示の内容、方式、そして開設後の反響を検討する。果たして国境地域に特有の歴史が、国民国家内における地域(とその内部のグループ)の自己主張、中央の関係、隣国ドイツとの関係、そしてヨーロッパ統合のなかでどのように記憶され(ようとし)ているのであろうか。そこにおいて歴史家たちはどのような役割を果たしているのであろうか。それを通して、国境地域における「国境の越え方」とその難しさについて考えてみたい。


【報告2】 ドイツ現代史の記述と表象
   ―“Unsere Muetter, unsere Vaeter” から考える歴史認識の越境化の諸相―
                                            川喜田敦子


 “Unsere Muetter, unsere Vaeter”(DVD邦題「ジェネレーション・ウォー」、Nico Hofmannプロデュース・teamWorx製作)は、2013年3月に第二ドイツテレビ(ZDF)で三夜連続放映されて話題になったドラマシリーズである。祖父母・両親の体験を家庭のなかで語り継ぐ契機にしたいと謳い、当時の若者世代の戦争体験を描いたこのドラマは、近年の歴史学の成果を取り入れ、東部戦線の実情を美化することなく描いたとしてドイツの歴史家からも評価された。他方、「ナチ」が常に他者として設定されている、ドイツ人を「戦争」に翻弄された被害者として描いている、という批判もあった。とくにポーランドからは、同国の反ユダヤ主義の描き方に大きな批判が寄せられた。本報告ではこの歴史ドラマを手がかりに、ナチズムと第二次世界大戦をめぐる今日のドイツの歴史認識について、「国境」、「世代」、「国内の他者との壁」という三種の「越境化」の様相を論じたい。


【報告3】 ポーランド現代史における被害と加害
         ―歴史認識の収斂・乖離と歴史政策―          吉岡潤


 冷戦後、東欧や旧ソ連地域では冷戦下で封印されていた民族問題をはじめとする歴史問題が次々と溶出した。その際、特徴的に観察されたのは、第二次世界大戦時の被害者・加害者の区分線が融解したことである。自らをもっぱらドイツによる占領の被害者として認識していたポーランド人の、ユダヤ人虐殺への関与や戦後のドイツ人強制移住など、加害者としての側面が急速に照らし出される、などの事例が各国各地域で見られるようになった。こうした現象は歴史認識をナショナルあるいはローカルに閉じこもらせる契機にもなれば、歴史認識の越境化・和解へと開いていく契機にもなった。本報告では、歴史を捉える「規格」(もしくは「記憶のパッケージ」)に着目しつつ、ポーランド、特にドイツとの境界地域であるシロンスク/シュレージエン地方の歴史博物館展示を題材に、歴史認識の自閉化・越境化・共有について考えてみたい。

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小シンポジウム4
「世界史教育における大学と高等学校間の壁をどう乗り越えるか。
 ―高校教科書、大学入試、教員養成課程、高校教員研修などに注目して―」

企画責任者 油井大三郎


【趣旨説明】 油井大三郎


 現在、高校の世界史教育は大きな転換期を迎えている。文部科学省が2016年までに中教審に対して「日本史必修化」の検討を諮問したからである。それが、世界史必修をやめて、日本史のみを必修にするのであれば、高校における世界史履修者は激減するだろう。または、日本学術会議などが提唱した世界史と日本史の統合科目も日本史必修に含まれるのか、今後注視してゆく必要がある。また、高校の歴史教科書は、大学入試の影響で改訂の度に用語が増大しており、その暗記を強いられる生徒の「歴史離れ」を促進しているとも言われている。そのため、2014年夏には、高校の歴史教育と大学入試の改革をめぐるアンケート調査が実施され、新しい世界史教育や大学入試のあり方が示された。他方、この間、個々の大学においては、世界史教育内容の見直しや高校教員の研修など多面的な高大連携の実践が蓄積されてきた。本シンポジウムでは、大阪大学、東京外国語大学、静岡大学、茨城大学での実践を報告するなかで、世界史教育における高大連携の在り方を、世界史担当の高校教員向け研修、教育内容、大学入試、教員養成、地域からの世界史研究など多面的に検討してゆきたい。


【報告1】 世界史教育の刷新をめぐる高大連携の試み
         ―阪大の挑戦―                        秋田茂


 大阪大学では、21世紀COEプログラムの一環として、2003−06年、2010年8月の5回にわたり、150人規模の全国高等学校歴史教育研修会を開催してきた。2005年10月には大阪大学歴史教育研究会を設立し、毎月1回の研究例会(年間9回)で、大学の歴史系研究者と高校で世界史・日本史を担当する教員がいっしょになって世界史の教育内容を議論する場を設けてきた。その他、京阪神、神奈川、北海道、熊本など各地の高校教科研究会とも連携し、高校歴史教育の改善のための協力の輪を広げている。
 同時に私たちは、大学教養教育、さらには大学院を含めた専門教育や教員養成課程の改善、「高度教養教育」の導入も含めて、総合的な取り組みを行っている。2014年4月には大学レベルとしては初めての世界史教科書『市民のための世界史』を刊行した。本報告では、世界の学界で急速に進む「世界史」研究の展開と絡めて、日本の西洋史研究者はなぜ世界史の構築に消極的なのか、私たちはいかにすれば世界の学界だけでなく、高校現場での世界史教育にも貢献できるか、一つの問題提起を試みたい。


【報告2】 『世界史未履修問題』から10年後の高校世界史と大学
                                            鈴木茂


 本報告では、「世界史未履修問題」が起きてからほぼ10年が経過した現在のいわゆる進学校における高校世界史教育の現状を紹介し、高校世界史教育の現状と課題について考察したい。東京外国語大学では2006年から2014年まで、前期日程入学試験で「世界史」を必修としてきた。また、同大学海外事情研究所では、2009年から高校の「世界史」担当教員を対象とする「夏期世界史セミナー」を開催してきた。これらの経験を踏まえ、科研費研究プロジェクト「地域研究に基づく『世界史』教育の実践的研究」(基盤B、研究代表:金井光太朗、2013-2015年)を立ち上げ、研究の一環として、2年間にわたり学生アンケート、高校教員アンケートと聞き取り調査を実施した。質問項目は、教科書と教材、歴史教育の現状や問題点や意義など多岐に及ぶが、今回は全般的な調査報告に加え、とりわけ大学入試が歴史教育に及ぼしている影響を取り上げたい。


【報告3】 静岡歴史教育研究会における高大連携の試み
                                            岩井淳


 静岡大学では、静岡県の高校教員と協力し、2010年12月に静岡歴史教育研究会を設立した。この研究会は、第一に今日的な課題に向き合う歴史学を追求し、第二に日本史と世界史の架橋を目指し、第三に高校と大学を結ぶ高大連携を推進することを目標に掲げ、これまで静岡地域に関連するテーマを積極的に取り上げてきた。研究会は年間2回ほどで、参加者は、大学教員、高校教員から学部生、院生、教員志望の卒業生、地域の方などが、毎回40名程度集まっている。本報告は、従来の研究会活動に加えて、2014年度から始めた地歴教員養成講座による高大連携の試みを紹介する。この試みは、地歴の教員を目指す学生や院生の勉強会を静岡大学で開催し、高校教員・大学教員・教員志望学生という三者の「対話の場」を設けることを目的としている。本報告では、必ずしも財政的に恵まれない地方大学であっても、工夫次第で何ができるのか考えてみたい。合わせて世界史と日本史をつなぐ歴史教育についても言及する。


【報告4】 地域から世界史を見直す
         ―茨城大学の実践―                      深澤安博


 茨城大学人文学部では2005年から「地域史シンポジウム」を毎年開催している。それまでのテーマは「日本史」中心だったが、2010年には「茨城から世界史研究・世界史教育を考える」にした。その基調を「日本史」/「世界史」を越えるとし、日本学術会議高校地理・歴史科教育分科会が提起していた「歴史基礎」案を基本的に支持する内容にした。高校教員からは「歴史基礎」の実施はなかなか難しい、「世界史」を加えた「日本史」になるのではないかという意見も出た。2014年には「茨城の地から世界史を見通す/世界史から茨城の地を見通す(Local Lives in Ibaraki area in World History)」 をテーマとした。大学・高校教員だけでなく、博物館員の協力もえて、自らの生活範囲である個々の地域がどのように「世界史」の一舞台を成しているかを「見通す」ことを課題とした。「地域史」、「国民史」の枠内での志向に対してある程度の問題提起ができたと考えている。以上の2回のシンポジウムでは現役学生も報告し、高校生も参加した。

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