シンポジウム  Last update 2014・4・15  

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第64回日本西洋史学会大会シンポジウムの紹介

第64回日本西洋史学会大会は、 2014年5月31日(土)ならびに6月1日(日)の両日、 立教大学池袋キャンパスを会場として開催されます。 大会は、第1日目に理事校会議、公開講演、総会、懇親会を、 第2日目に7つのシンポジウムとポスターセッションを設ける予定です。 第64回日本西洋史学会大会運営委員会は、大会で開催される予定の7つのシンポジウムの紹介をここに掲載させていただくことにしました。 以下、各シンポジウムの企画責任者に用意していただいた企画目的とプログラムです。 なお内容に変更のあった場合、2014年4月以降に、本ホームページにてお知らせいたします。

本大会のシンポジウムは、 すでに共同研究がある程度進展している科学研究費基盤B以上の研究グループにお声がけし、 その上で30代以下の若手を報告者として一人以上加えていただくという条件をお願いしました。 運営委員会としては、今回の7本の企画は、テーマにせよ報告者にせよ、西洋史研究の最前線であり現状を示すものであると考えます。 西洋史学の活性化のためにも多くの皆様が大会に出席され、 シンポジウムの討議にご参加いただけますようお願い申し上げます。

2013年10月 大会運営委員会 立教大学文学部 小澤 実

A:古代地中海世界における聖域と社会 (15号館 M301)

企画目的

古代地中海世界の基本的な社会集団は都市であった、とはよく言われるところだが、 この世界には、それに数倍する数の聖域が、都市の内外に営まれていた。 ひとつひとつの都市が様々な来歴や機能を持つ複数の聖域を有することは通例であり、 都市を形作らない諸族の集落や都市の農村領域の村落で、あるいはまた人里離れた山中や荒野で、 多様な聖域がそこで行われる祭儀や儀礼に多くのひとびとを集めた。 それぞれの家庭の中、あるいは街頭に置かれた祭壇までも聖域に含めるならば、 古代地中海世界には至る所に聖域が遍在していたといえ、ひとびとは、 そこで現代の我々とは比べものにならぬほど活発に儀礼や祭儀を通じたコミュニケーション活動を行い、 豊かな宗教生活を送っていたのである。本シンポジウムは、都市という枠組みを後景に退かせ、聖域に注目することで、 それらを結節点とした古代地中海世界特有の、ひとびとの社会的結びつき、 あるいは空間世界・精神世界の構造に関する新しい見方や知見を提示することを目的のひとつとする。 そこに古代地中海世界の編成の、これまであまり気づかれることのなかった新しい絵柄が見えてくるかもしれない。

その一方また、古代地中海世界では、大小の聖域空間、 またそこで様々なグループの成員によって行われる祭儀のあり方やそれに対する人々の態度は全時代を通じて常に同じではなく、 大きな変化を経験した。様々な神格に捧げられた聖域が太古以来後3世紀まで至るところに叢生し、 ギリシア・ローマ起源の神々と土着の神格の習合を伴いつつ拡張・整備されることになった一方、 後4世紀以降二世紀間たらずのうちにそれら聖域の大多数は急速に放棄・破壊・改築されてキリスト教の教会聖堂等に置き換えられていった。 それまで聖域の存在しなかったところに礼拝堂や修道院が創られたことも稀ではない。 こうした劇的な聖域構造の変化は、今日、なお古代以来の幽玄な佇まいを保つ神社やそこで営まれる神道祭祀の儀礼をなお目にすることができる日本人にはとりわけ印象深く、 そこに大きく深い精神的・心性的転回があったであろうことを推察させる。そうした変化の諸相や特徴を、 聖域というフィルターをとおして古典期ギリシアから古代末期まで通観することも、このシンポジウムのもうひとつの眼目になる。

プログラム

9:00-9:05 趣旨説明:浦野聡(立教大学)

9:05-9:35 上野慎也(共立女子大学)
「郊外−古典期のアテーナイ」

9:35-10:05 中尾恭三(大阪経済法科大学)
「ヘレニズム時代における聖域の活用―冠付競技会の普及と広域ネットワーク」

10:05-10:10 技術的質問1

10:10-10:40 藤井崇(京都大学)
「ローマ帝国東方地域における聖域と社会」

10:40-11:10 中川亜希(東京大学)
「古代ローマ西方の聖域と社会」

11:10-11:15 技術的質問2

11:15-11:45 田中創(東京大学)
「ローマ帝政後期の神殿利用―州民と官吏の相互作用」

11:45-12:15 奈良澤由美(東京大学)
「南ガリアのキリスト教聖堂における典礼空間と埋葬」

12:15-12:20 技術的質問3

(昼食・ポスターセッションのため中断)

16:00-17:30 討論

司会:師尾晶子(千葉商科大学)、阪本浩(青山学院大学)、
志内一興(中央大学)、後藤篤子(法政大学)、浦野聡

要旨

古代地中海世界においては、各都市が様々な来歴や機能を持つ複数の聖域を有することは稀でなく、集落や村落、あるいはまた人里離れた山中や荒野で多様な聖域が祭儀や儀礼に人々を集めた。家庭や街頭の祭壇まで至る所にそれは遍在しており、人々はそこで現代と比較にならぬほど活発な交流を行い、豊かな宗教生活を送っていたのである。本企画は、古代地中海世界の社会的基本単位であった都市というよりむしろ聖域に注目することで(ないしは聖域に注目して都市をもまた見直すことで)、それらを結節点とした地中海世界特有の人々の社会的・政治的結びつき、あるいは空間世界・精神世界の構造に関する新しい見方や知見を提示することを目的とする。そこに古代地中海世界の編成の、従来余り気づかれなかった絵柄が見えてくるかもしれない。

その一方、地中海世界では、大小の聖域空間・祭儀のあり方やそれに対する人々の態度は古代を通じて同じではなく、大きな変化を経験した。ギリシア・ローマ起源の神々と土着の神格の習合を伴いつつ様々な聖域が拡張・整備、あるいは逆に衰退・置換された後、とりわけ4世紀以降には、2世紀間たらずのうちにそれら聖域の多くは放棄・破壊・改築されてキリスト教の教会聖堂等に取って代わられた。こうした劇的な聖域構造の変化は、皇帝政府などの政治権力によって主導された面があり、また地方における権力闘争の結果でもあったと予想される一方、人々の心に大きく深い精神的・心性的転回を背景にし、あるいはそうした変化を促進したものと推察される。そうした変化の諸相と社会へのインパクトを通観することも、このシンポジウムのもう一つの眼目になる。

浦野聡(立教大学)

上野慎也(共立女子大学)
「郊外−古典期のアテーナイ」

古代ギリシアにあって、ポリスは聖域を擁する空間であると同時に、それ自身がある種の聖域だったのではなかろうか。

殺人がポリスに血の穢れをもたらすことを想ってみればよい。咎人の遺骸を国境の外に放逐する刑罰を想い出してみればよい。市民が市民として生き、文明を営む「褻」の空間は、同時に「褻」として使用することを許された、特別の空間である。ポリス自体に聖性を見る所以である。

アテーナイではまた、僭主政を企てた首魁や共謀者をあやめた者に「穢れなかるべし」と触れ出された。ポリスのあるべき政体は神慮に適う道であり、その道を阻もうとする者がいれば、これを除くのが正義であった。流れる血は同じでも、流す理由で穢れにもなれば、敬神の義挙にもなった。ポリスに備わる聖性には流動性がある。あるいは、常に再定義の渦中にある。

──予想は簡単である。しかし、その動態を如何にして垣間見よう。

本報告では中心市と郊外のあり方は相即不離である点に着目して、ポリスを中心市と郊外に二分する。アテーナイ中心市の近郊を舞台に択ぶプラトーン『パイドロス』を繙き、そこに展開する修辞批判、文字批判を辿る。なにゆえこの対話篇がこのような結構を備えるに至ったのか。郊外祭祀の在り方にも目配りをしつつ、一つの仮説を提示する。中心市と郊外の関係が揺らいでいる様子を看て取ることができるはずである。口承がもつ伝来の権威に背馳するかのごとき『パイドロス』の論調が、中心市と、そこに営まれる伝統に対する批判を意図したものではないかと論を進め、以てポリスの聖性の動態に少しでも迫りたい。

聖性は何らかの形で「褻」を否定して成り立つ。その「何らかの形」は折に触れて変化する。それは孤絶した環境にある聖域においてもまた同断である。聖域を聖域たらしめる原理、言説について考える素地を提供することもまた、目標である。

中尾恭三(大阪経済法科大学)
「ヘレニズム時代における聖域の活用―冠付競技会の普及と広域ネットワーク」

古代地中海世界において聖域が、時に当該地域を超越した人びとが集う空間であったこと、そこで営まれる儀礼が信仰される神々との関係のみならず、社会関係や多層化された自己認識を再確認する機会を提供したことは、特定の時代のみ確認される現象ではない。しかしながら、ヘレニズム時代は古典期と比較して人・モノ・情報の流動性の高まったと推測されること、地中海東部、とりわけ小アジアでの利用可能な碑文史料が増加しつつある現状から、古典期とは異なる研究上のアプローチをとることが可能であるのもまた、確かである。以上の点をふまえて、本報告でとりあつかうのは前3世紀からの冠付競技会の普及とそれが国家間の交渉に果たした役割である。

ピュティアといった古代ギリシアの4大祭典に比肩するとみなされた冠付競技会創設の嚆矢は、前279/8年にアレクサンドリアで開催されたプトレマイアである。開催都市が競技会参加を呼びかけた都市の内わけから類推される冠付競技会の規模には、地域的なものから広域的なものまで差異があり、それらを総じて全ギリシア的祭典と評価することはできないが、前3世紀から前1世紀にいたるまで、同種の競技会がいくつものギリシア都市で創設されたことが確認できる。これら冠付競技会の創設は当該都市のみによって達成されるものではなかった。冠付競技に参加し成果を残した人物は、開催都市と所属する都市において報酬を受け取る慣習があったため、競技会の創設には複数都市から事前の同意を必要としていたのである。加えて、伝統的な冠付競技会が催される聖域からの推薦を必要とする場合があった。これはとりわけ、神託というかたちで開催を企画する都市に下された。この2点から、競技会創始にあたっては、信仰の中核となっていた聖域と開催都市との結びつき、多数の都市との親密な関係が必然であったとみなすことができよう。そこからヘレニズム時代における中核的聖域の多元化と国家間の交渉網の変化を考察し、当該都市が達成しようとした目的を論じていく。

藤井崇(京都大学)
「ローマ帝国東方地域における聖域と社会」

本報告は、ローマ帝政期(おおよそ紀元前1世紀末から紀元後3世紀末までとする)における聖域と社会の関係について、ギリシア語圏の帝国東方地域に注目しながら、ローマ時代に従来の聖域にはどのような変化がおこったのか、聖域に集う人々はその変化にどのように寄与し、もしくは影響を受けたのか、そして新しい聖域が生まれたとしたらそれはどのように形成されていったのかという問題を、当時の社会、特にローマ帝国の政治的、社会的諸条件との関連から考察することを目的とする。ただし、ギリシア本土からシリア、エジプトにおよぶ広大な領域全体の分析は不可能なので、本報告では、地中海第三の島キプロスを例にとって、この属州キプロスの聖域が経験した変化をたどることで、ローマ帝政期の聖域と社会を理解するために重要となるトピックをいくつか析出していきたい。もちろん、類似例がある場合には、他地域(特にギリシア本土・島嶼部ならびに小アジア)の事例にも言及するが、そうすることで、ローマ帝国東方地域の聖域に共通する状況を浮かび上がらせることができるのではないかと考えている。キプロス島において対象とする聖域には、パフォスのアフロディテ神殿、クーリオンのアポッロン神殿、サラミスのゼウス神殿といった規模の大きな聖域のみならず、都市内部に存在した聖所、さらに田園地帯の小規模な聖域も含まれる。分析する史料は、文献史料、銘文史料、そして若干の考古学史料である。

本報告では、具体的には以下のトピックを扱う予定である。1. 皇帝・帝国行政と聖域の関係。2. 皇帝崇拝と聖域。3. 聖域・神話と地域的及び帝国的アイデンティティ。4. 「異教的一神教」の出現。

中川亜希(東京大学)
「古代ローマ西方の聖域と社会」

デルフォイをはじめとするギリシア世界の神託の名声と影響力はよく知られる。他方で地中海の西では地域的な神託所もあまり知られていないが、イタリアのプラエネステ(現Palestrina)とアンティウム(現Anzio)にあったフォルトゥーナ女神の神託所には各地から人が集まったとされる。特に神託についてのキケロの具体的な記述が知られ、他に例を見ない規模で建設されたプラエネステの聖域については、歴史、考古、建築、美術などの学問分野で論じられてきた。まずは年代に関して注目された。考古学的調査により聖域は前6世紀頃から存在したことが判明しているが、遺跡として現在も見られる建築は、プラエネステの都市全体が整備された際に再建されたものである。その再建は、同盟市戦争の際のスッラによる征服(前82年)を機に行われたと考えられた時期もあったが、建築や美術のスタイル、碑文の分析などに基づき、前2世紀末というのが現在の一般的な見解である。また、この巨大な聖域の各空間の機能も議論されてきた。現在も都市の中心である大聖堂がある広場に位置していたフォルムの周辺の建物群に、神託所(魚のモザイクで飾られた「神託の洞穴Antro delle sorti」)やフォルトゥーナ女神の神殿(ナイルの氾濫のモザイクで飾られた「洞穴」のある「アプスの間Aula apsidata」)が含まれるとされ、かつては「下の聖域」と呼ばれていた。しかし1944年の連合国軍の爆撃により後の時代の建物が取り除かれて調査が進み、現在はバシリカなどの公共建築と考えられている。そして「上の聖域」にフォルトゥーナ女神の聖域と神託所があったとされる。以上の先行研究では、プラエネステの聖域と神託が地中海世界で広く名声を得ていたという推測が共通の認識となっていたと言える。しかし近年、そのような推測には慎重であるべきという指摘がなされた。本報告では史料を再検討し、この聖域がローマ社会においてどのような存在であったのかを考察し、ローマの宗教について考える。

田中創(東京大学)
「ローマ帝政後期の神殿利用―州民と官吏の相互作用」

後4世紀のローマ帝国は、宗教施設・聖職者集団に対する政府の施策が為政者の交代と共にめまぐるしく変動した時期である。それは、迫害の対象となっていたキリスト教が政府から公認され、積極的な支援を受けるようになっただけにとどまらない。どの教派が政府からの支援を得られるか、あるいは皇帝の宗教儀礼をどのような形で実施するかなど、さまざまな側面において新しい試みがなされたのである。ときには、ユリアヌス帝のように先代までの統治方針を一変させる事態さえ起きえた。このような宗教面での変動が激しい状況下で、宗教施設をめぐる争いがしばしば史料中に報告されるのもこの時期の特徴である。本報告では、そのような争いの具体事例をもとにして、その背景にあった帝国政府の政策決定メカニズムを考察し、それがいかなる形で機能していたのかを剔出することを目指す。

具体的には、コンスタンティヌス帝(位306-337)がキリスト教支援策を取るようになってから4世紀末のテオドシウス1世帝の治世(位379-395)までの期間に関して、神殿施設あるいは聖域空間をめぐる帝国政府の施策と地方住民側のそれに対する反応を検討する。報告ではまず最初に神殿施設を帝国政府がどのように利用していたかを概観する。ここでは、神殿という空間の利用方法を指摘すると共に、いわゆる「異教徒」と「キリスト教徒」との間での類似した祭儀についても注意を喚起したい。次いで、神殿施設や聖域空間をめぐる騒乱の事例を取り上げ、帝国の行政構造において地方住民、そして地方統治に実際に当たっていた行政官僚たちが果たした役割について考察する。そこからは、所与の聖域空間をめぐって、帝国政府・行政官僚・地方住民の三者間での駆け引きがどのような形で展開したかが浮かび上がってくるであろう。最後に、若干ではあるが、そのような騒乱を記録する著作家たちの執筆動機についても検討し、聖域をめぐる騒乱の記述を一般化する危険性についても指摘したい。

奈良澤由美(東京大学)
「南ガリアのキリスト教聖堂における典礼空間と埋葬」

5世紀から7世紀、古代世界には大きな空間的混乱が生じる。これまでの居住区域が放棄され、大規模の集落は分散し、新しい居住地領域が生まれる。教会は古代世界の空間構造をまず採用するが、古代末期のこうした混乱と社会の変質から、多様な形態が共存するようになる。新しいキリスト教世界のトポグラフィーの特性として、死者の領域と「聖域」の混合、混在が指摘されるが、聖なる人々の墓への崇拝から新しい「聖域」が生まれ、そこに生者も死者も集まっていく。「異教」の都市、聖域、墓地から、新しい居住空間と聖堂および墓地へ、どのように移行していったのか、本報告ではガリア地方の具体的な事例から、この時代のゆるやかで複雑な移行の状況を考察する。

埋葬も教会空間も何らかの社会秩序とヒエラルキーを映し出している。古代の集会場の形式を採用したバシリカ式聖堂は、キリスト教の礼拝の象徴性、至聖所及び聖職者の聖性を演出するためには十分ではなく、その時々の要請の変化によって、柵や幕を用いて空間をコントロールすることが必要であり、礼拝に相応しい空間区分を創出するために模索が続けられていく。特に、聖職者コミュニティーの肥大化と聖人崇敬の発達という二つのファクターが、その後の教会空間の展開の方向を大きく導いていく。また聖堂内にはしばしば特権的な墓が設けられ、生者ばかりでなく死者も集う場となる。

本報告は考古資料、文献資料、図像資料を用い、古代末期の南ガリアの礼拝と埋葬の空間を分析し、古代世界からキリスト教世界へ、その継続、断絶、変質を考える。

B1:回路としての教皇座―13世紀ヨーロッパにおける教皇の統治 (15号館 M302)

企画目的

近年、欧米では、ローマ中心史観の傾向にあった教皇=教皇座研究と、ヨーロッパ各地域の地方教会研究の蓄積の接合をはかる共同研究が現れている。J・ヨレント編『中心としてのローマとキリスト教世界の周縁―諸教会の結節点としての普遍的教皇権』(2008)はその代表例だが、同書は、伝統的な正統異端史観や聖俗権力抗争史観を相対化し、中世教皇史をローマと地方教会との間の「コミュニケーション論」として捉え直すことを試みている。本シンポジウムは、同書とコミュニケーション論という考察枠組みを共有しつつも、同書の「その後」の時代である13世紀を主たる分析対象としながら、その提言をさらに発展・深化させることで、教皇座研究に新たな地平を切り拓くことを目指す、4年間の研究プロジェクトに基づいて企画されたものである。

教皇座が教皇特使や教皇判事、書簡や文書といった多様な発信手段と情報形式を用いて、自らの普遍主義的な政治意志をヨーロッパ各地の地方教会に発信する一方、地方教会の側も使節・書簡・訴状のかたちで様々な案件をローマに持ち込んだ。この双方向的なやりとりの蓄積から、ローマと地方教会との間に人や情報が循環するコミュニケーション回路が成立していく。この回路はキリスト教世界への情報の伝達・共有という機能をはたしただけでなく、それらの情報(あるいはその形式)に付随する様々な価値―権威・規範性・想像力―が、受信者である地方教会を「ローマを頭とする身体」として編成する一方、教皇の側もその普遍性=世界性を、この編成されつつある身体に依存していった。

本シンポジウムでは、こうした基本認識のもと、文書としての教皇、身体としての教皇、地理的身体としての教皇、想像界の中の教皇、の4点を基本論点としつつ、13世紀ヨーロッパにおいて、教皇座が回路の鎹(かすがい)として担った役割、教皇の身体が発揮しえた統治編制力(ガバナンス)の内実を明らかにするための手がかりを示したい。

プログラム

9:00-9:05 趣旨説明・司会:千葉敏之(東京外国語大学)

9:05-9:35 菊地重仁(東京大学)
「アルプス以北における教皇の権威と教皇文書の影響力:
 初期中世における基盤形成とその後の展開」

9:35-10:05 藤崎衛(東京大学)
「教皇使節と教皇のペルソナ」

10:05-10:35 千葉敏之
「教皇の地理的身体」

10:35-11:05 池上俊一(東京大学)
「想像界の中の教皇」

11:10-11:25 コメント1:草生久嗣(大阪市立大学)

11:25-11:40 コメント2:加藤玄(日本女子大学)

要旨

近年、欧米では、ローマ中心史観の傾向にあった教皇=教皇座研究と、ヨーロッパ各地域の地方教会研究の蓄積の接合をはかる共同研究が現れている。J・ヨレント編『中心としてのローマとキリスト教世界の周縁―諸教会の結節点としての普遍的教皇権』(2008)はその代表例だが、同書は、伝統的な正統異端史観や聖俗権力抗争史観を相対化し、中世教皇史をローマと地方教会との間の「コミュニケーション論」として捉え直すことを試みている。本シンポジウムは、同書とコミュニケーション論という考察枠組みを共有しつつも、同書の「その後」の時代である13世紀を主たる分析対象としながら、その提言をさらに発展・深化させることで、教皇座研究に新たな地平を切り拓くことを目指す、4年間の研究プロジェクトに基づいて企画されたものである。

教皇座が教皇特使や教皇判事、書簡や文書といった多様な発信手段と情報形式を用いて、自らの普遍主義的な政治意志をヨーロッパ各地の地方教会に発信する一方、地方教会の側も使節・書簡・訴状のかたちで様々な案件をローマに持ち込んだ。この双方向的なやりとりの蓄積から、ローマと地方教会との間に人や情報が循環するコミュニケーション回路が成立していく。この回路はキリスト教世界への情報の伝達・共有という機能をはたしただけでなく、それらの情報(あるいはその形式)に付随する様々な価値―権威・規範性・想像力―が、受信者である地方教会を「ローマを頭とする身体」として編成する一方、教皇の側もその普遍性=世界性を、この編成されつつある身体に依存していった。

本シンポジウムでは、こうした基本認識のもと、文書としての教皇、身体としての教皇、地理的身体としての教皇、想像界の中の教皇、の4点を基本論点としつつ、13世紀ヨーロッパにおいて、教皇座が回路の鎹(かすがい)として担った役割、教皇の身体が発揮しえた統治編制力(ガバナンス)の内実を明らかにするための手がかりを示したい。

千葉敏之(東京外国語大学)

菊地重仁(東京大学)
「アルプス以北における教皇の権威と教皇文書の影響力:
初期中世における基盤形成とその後の展開」

1198年のインノケンティウス3世即位以降の半世紀から知られる教皇文書は約28000点と言われている。最後のギリシア人教皇ザカリアスが死去した8世紀半ば以降11世紀半ばまでの300年からは約5000点、1198年にいたるその後の約150年間からは約20000点の教皇文書が知られているが、これら約450年分の文書を合わせてもその数字には届かないほどの量的増大が見て取れる。こうした数字は文書記録簿のような史料の伝来状況の違いに左右される部分もあるとはいえ、初期中世以来の教皇文書発給量における格段の飛躍を示している。こうした量的変化の転換期にあたる11世紀半ばならびに12世紀後半についてはそれぞれ改革教皇たちによるヨーロッパ諸教会への積極的介入政策、教皇庁への上訴の増加などといった要因が指摘されている。同時期に観測される盛式特権状の成立や書簡体文書の隆盛といった文書形式上の変化もまた、文書発給の影響力あるいは効率性の向上という意図と結びつくだろう。

さて上で触れたような中心たるローマ/教皇によるヨーロッパ各地の教会(人)に対する統一的・画一的な影響力行使に際した精力的文書利用という盛期中世以降の様相は、前期中世においては見いだし難い。むしろ10世紀から11世紀半ばまでの教皇文書を精査した最近の諸研究は、それぞれの政治状況や地域的文書慣行などに影響された地方教会の要望に対する応答的な性格を強調している。教皇文書の意義には各地域によって差異があり得たのだ。

ではさらに遡り、教皇がビザンツ皇帝権と距離をおきカロリング朝君主との連携を強めた8世紀中葉から9世紀末までの時期において教皇文書はいかなる意義・影響力を持ったのだろうか。本報告ではローマから空間的距離を隔てたアルプス以北に対する教皇の文書発給、とりわけ特権付与のあり方に注目する。その際発給前後における世俗君主、仲介者ならびに受益者とのコミュニケーション、そして6度確認される教皇自身のアルプス越えという特殊事例の意義が合わせて考察される。

藤崎衛(東京大学)
「教皇使節と教皇のペルソナ」

教皇座とヨーロッパ各地の宗教機関や世俗権力との間の媒介者であった教皇使節(legatus)は、いうなれば中世キリスト教世界という身体を循環する血液の役割を果たした。ヨーロッパに広く張り巡らされた回路を往還する教皇使節たちについての研究は、これまでの個々の研究者が散発的成果を蓄積する段階を経て、近年、共同研究の形をとりつつ活況を呈するにいたった。

中世の教皇使節が活動した地域、彼らが派遣された目的、彼らに委ねられた権限の範囲は実に多様であり、これらを一般化することはきわめて困難である。教会法学の進展とともに教皇使節についての規範の確定も試みられるようになるが、規範を再構成することで教皇使節の理念型を抽出しようとしても、それだけでは歴史的実態の把握はできない。このことは、ときとして任務を課す側と課される側の双方の間に意思の齟齬が生じることがありえた事例からも理解されよう。とくに使節が外交的な役割を担う場合、このような事態が露見する。その背後には使節が教皇権を代理するのか、それとも教皇権の代表者すなわち個別の教皇を代理するのかというジレンマがあったと考えられる。

いずれにせよ、教皇使節の多様な任務の中でもとくに外交交渉に、そしてその外交の任務が与えられた人々に注目することにより、彼らが教皇の人格(ペルソナ)がゆだねられ、教皇を代理するという教皇使節の端的な性格とその実態の一側面が明瞭となるだろう。11世紀から12世紀における教皇座改革を経た後の、13世紀という時代、すなわち教皇庁が組織と制度をより複雑なものとし、教皇領支配を充実させ、教会法が発展を遂げるという、固有の文脈に即して、この世紀の教皇使節の活動を評価する。

千葉敏之
「教皇の地理的身体」

教皇権や皇帝権を巡る議論は従来、その普遍性を唱える理念面ばかりが主たる議論の対象となってきた。本報告では、13世紀において、教皇権の普遍的権威が人と文書の循環を通じていかに地理的に実体化されていったかを明らかにしたい。

近代ヨーロッパでは、国民国家の「国土」の形状が「地図ロゴ」として国民国家の表象となり、これをベネディクト・アンダーソンはGeo-Bodyと呼んだ。一方、近世では、地図制作者がヨーロッパを、構成国がジグソーパズルのごとく人型をつくる女王の擬人像として描くEuropa reginaの表象伝統が生まれた。本報告は、そのような図示の伝統が未成熟な中世盛期にあって、教皇座がその統治の及ぶ圏域を地理的に画定していく回路の存在とメカニズムの析出を試みる。その際、@人と情報の交通圏と密度、A中心を占める「教皇の身体」の不動性と情報の求心性、B教皇の「第二の身体」(教皇特使、使節)の到達圏域、C教皇の身体の地理的想像力との接合、の4点がその尺度となる。

具体的には、第一に、教皇勅書・使節を通じた教皇座による外交と宣教に着眼し、地理的身体の外郭をなす辺境地域の統治、その過程での修道会の認可・承認、とくに騎士修道会の統制、エルサレム王国などの境域国家への関与、境域における大司教管区教会会議や仲裁裁判の司宰、などの諸活動のなかに圏域確定のメカニズムを読みとる。また同時に、プルス人(プロイセン)布教の統率、モンゴル禍(1241年)に対する対処、モンゴルへの托鉢修道士派遣といった活動のなかに、地理的想像力と預言的言説の接合の過程を読み取る。

第二に、13世紀における普遍公会議―地域公会議の階層的関係構築の過程を踏まえつつ、第3回ラテラノ公会議(1179年)、第4回ラテラノ公会議(1215年)、第二リヨン公会議(1274年)という3つの普遍公会議に着目し、とくに召集書簡、開会説教、出席者、議題(東西教会合同問題)の分析を通じて、教皇の地理的身体の画定の実相を明らかにする。

池上俊一(東京大学)
「想像界の中の教皇」

11世紀後半に始まったグレゴリウス改革の時期に、corpus mysticumと称されるようになった「教会」の「頭」としての教皇とのイメージが広められ、「頭」である教皇に「四肢」である聖職者が仕え、世俗の王国を指導すべきだとされた。それと並行して「キリスト教世界」Christianitasという、曖昧な輪郭ながら全世界へと普遍的広がりを見せるもうひとつの重要な観念ないしイメージが、あるべき秩序の実現や布教・十字軍活動との関連で打ち出された。その後13世紀にかけて、ローマ・カトリック教会では汎ヨーロッパ的な法・制度・組織・典礼が整備されていくが、それと同時に、教皇庁は独自の儀礼の彫琢・イメージ戦略にひときわ熱心になり、「キリストの代理人」としての教皇像が手を替え品を替えて強調されていく。もうひとつ「脆い肉体を持つ教皇」とのイメージが広まるのに比例して、制度としての教皇(庁)の不壊・永続性が確立していく。その永続性は枢機卿団や教会組織によって保証され、将来の公会議主義の芽になったとも看做せるが、さしあたり教皇の権威が弱体化することはなかった。むしろ教皇の居る所がローマ(Ubi est papa, ibi est Roma)と言われるように、「空間から人格へ」という権威の在処の移動を伴い、教皇権は強化された。13世紀から14世紀にかけてChristianitasのイメージは縮減され、諸王国・領国から成りヨーロッパと同値される小さな地域、あるいはヒエラルキーを有する教会Ecclesiaとなる。教会における法・裁判制度の躍進と教皇庁の世俗化・官僚の肥大化に不満を抱く異端者や民衆は、13世紀後半以降、別様の教皇イメージを提示して、既存の教皇の存立基盤を揺さぶった。女教皇ヨハンナをはじめとする幻想の教皇たちの伝説が盛んに語られ、終末論的色彩の教皇預言(Vaticinia de summis pontificibus)には、悪魔の手下としての教皇と来るべき天使教皇のイメージが動物イメージとともに登場する。

B2:境界地域における愛国主義とナショナリズム (15号館 M302)

企画目的

本シンポジウム、「境界地域における愛国主義とナショナリズム」は、ヨーロッパの境界地域における複合的な愛国主義(パトリア意識)と市民権の問題を考えようとするものである。ここでは境界地域を、政治的・文化的・宗派的な断裂がダイナミックに作用しながらも、共通の空間・秩序意識が観察される場所ととらえるが、その断裂がもっとも極端に観察されるのは、「ヨーロッパ」の東の境界であった(ヨーロッパ概念と境界創出については、第56回日本西洋史学会小シンポジウム、「地域概念としてのヨーロッパ」を参照)。ここでは、さしあたり「パトリア」を政治的、身分制的、文化的、宗派的文脈によって構築された帰属意識を支える空間概念として捉える。「市民権」とは、公共善を実現するべきパトリアへの積極的な参与を見込む権利として考えられる。本シンポジウムは、ヨーロッパの東部境界地域において、パトリア意識が複合性の下に一つの全体として成立していた近世から、二つの世界戦争によってそれが最終的に破局を迎えた現代までを見通しながら、個別研究の成果を報告し、議論しようとするものである。

近世期の「パトリア」としては、歴史的正統性の意識に裏付けられ、身分制議会、都市参事会が代表具現したさまざまなレベルの政治秩序(帝国、王国、邦、都市など)、宗派的に定義された「祖国」(宗派共同体、受難と奇跡に表象される地域)、広義の「文芸共和国」などが挙げられる。共和政思想に支えられたパトリア概念の政治思想上の重要性にも留意しよう。これらは相互に重なりつつ、多文脈的に一つのパトリアを構成していた。

近代を特徴づけるのは、市民社会の構想が国民主義的に実現され、パトリアが国民(Nation)の圏域に収斂する傾向である。しかし、近世期の複合的なパトリア概念は、19 世紀になっても政治的・社会的実践を強く規定しており、近代のこの傾向は近世からの連続性の下に分析しなければならない。

両次世界大戦は、ヨーロッパ東部境界地域の住民構成・人文地理学的景観を断絶させ、相互に重なり、輻輳するパトリアは物理的に失われてしまった。以後、この地域の歴史は長らく国民史の独占的文脈によって語られることになったが、現代史の破局は総力戦の時代と境界地域の歴史が交差するところに正当に位置づけなければならない。

本シンポジウムは、近世から現代にいたる政治秩序観の変容を問い直すと同時に、ヨーロッパの東の境界の経験をヨーロッパ史に有機的に組み込むことによって、ヨーロッパ史の語りを見直そうとするものでもある。

プログラム

14:30-14:45 篠原琢(東京外国語大学)
「複合的パトリアから全体論的ネーションへ―近世から現代への見通し」

14:45-15:15 小山哲(京都大学)
「ポーランド・リトアニア共和国における「市民」概念と公共性」

15:15-15:45 篠原琢
「祖国をめぐる変奏曲―ベーメン・ドイツ人歴史協会における歴史の再構成」

16:00-16:30 吉岡潤(津田塾大学)
「戦後ポーランド領土の創造と想像−国境線移動・強制移住・引き揚げ−」

16:30-17:00 鈴木健太(日本学術振興会)
「社会主義ユーゴスラヴィアにおける「ナロード」−1980年代末の大衆運動とナショナリズム」

要旨

篠原琢(東京外国語大学)
「複合的パトリアから全体論的ネーションへ―近世から現代への見通し」

本シンポジウム、「ヨーロッパ境界地域の歴史的経験とパトリア/市民権」は、ヨーロッパの境界地域における複合的な愛国主義(パトリア意識)と市民権の問題を考えようとするものである。ここでは境界地域を、政治的・文化的・宗派的な断裂がダイナミックに作用しながらも、共通の空間・秩序意識が観察される場所ととらえるが、その断裂がもっとも極端に観察されるのは、「ヨーロッパ」の東の境界であった(ヨーロッパ概念と境界創出については、第56回日本西洋史学会小シンポジウム、「地域概念としてのヨーロッパ」を参照)。ここでは、さしあたり「パトリア」を政治的、身分制的、文化的、宗派的文脈によって構築された帰属意識を支える空間概念として捉える。「市民権」とは、公共善を実現するべきパトリアへの積極的な参与を見込む権利として考えられる。本シンポジウムは、ヨーロッパの東部境界地域において、パトリア意識が複合性の下に一つの全体として成立していた近世から、二つの世界戦争によってそれが最終的に破局を迎えた現代までを見通しながら、個別研究の成果を報告し、議論しようとするものである。

近世期の「パトリア」としては、歴史的正統性の意識に裏付けられ、身分制議会、都市参事会が代表具現したさまざまなレベルの政治秩序(帝国、王国、邦、都市など)、宗派的に定義された「祖国」(宗派共同体、受難と奇跡に表象される地域)、広義の「文芸共和国」などが挙げられる。共和政思想に支えられたパトリア概念の政治思想上の重要性にも留意しよう。これらは相互に重なりつつ、多文脈的に一つのパトリアを構成していた。

近代を特徴づけるのは、市民社会の構想が国民主義的に実現され、パトリアが国民(Nation)の圏域に収斂する傾向である。しかし、近世期の複合的なパトリア概念は、19 世紀になっても政治的・社会的実践を強く規定しており、近代のこの傾向は近世からの連続性の下に分析しなければならない。

両次世界大戦は、ヨーロッパ東部境界地域の住民構成・人文地理学的景観を断絶させ、相互に重なり、輻輳するパトリアは物理的に失われてしまった。以後、この地域の歴史は長らく国民史の独占的文脈によって語られることになったが、現代史の破局は総力戦の時代と境界地域の歴史が交差するところに正当に位置づけなければならない。

本シンポジウムは、近世から現代にいたる政治秩序観の変容を問い直すと同時に、ヨーロッパの東の境界の経験をヨーロッパ史に有機的に組み込むことによって、ヨーロッパ史の語りを見直そうとするものでもある。

小山哲(京都大学)
「ポーランド・リトアニア共和国における「市民」概念と公共性」

17世紀初頭、アリストテレス『政治学』のポーランド語訳が、訳者のセバスティアン・ペトリツィによる詳細な補注を付して刊行された。この補注は、近世ヨーロッパの「文芸共和国」の東の境界地域で古代ギリシアの古典がどのように読まれたかを考えるうえで興味深いテキストである。『政治学』第3巻への補注のなかでペトリツィは、「われわれの共和国(rzeczpospolita)においては、市民(cives, miesczanie)とはシュラフタのみである」と述べている。ペトリツィは、古代地中海世界の都市国家を前提に書かれたテキストを、ポーランド・リトアニア共和国の国制に照らし合わせて「読み換えた」のである。

ポーランドの歴史学界では、1980年代以降、近世ポーランド・リトアニアの貴族共和制を一種の「市民社会」とする見方が提起されてきたが、このような解釈もまたペトリツィにみられるような同時代人の「読み換え」を前提としたものであった。「シュラフタ=市民社会」論は、現在では、「EUのなかのポーランド」という現状を歴史的に正当化する解釈しても定着しているが、これに対しては、近世ウクライナの植民地的状況を隠蔽する「ネオ・シュラフタ史観」(D・ボーヴォワ)であるとする批判も提起されている。

本報告では、ポーランド・リトアニア共和国の空間的な広がりと複合的な国制を念頭に置きながら、@リトアニア大公国側の人文主義者が「市民」概念をどのように認識しようとしていたか、Aウクライナの貴族社会はポーランドの共和主義的な政治文化をどのように受容したか、を検討する。このように、共和国内の境界地域に焦点をおいて考察することをつうじて、複合的な共和国における公共の秩序が人文主義的な政治的規範にもとづいてどのようにイメージされていたかを探ると同時に、規範と在地社会の現実とのあいだにどのような緊張関係が生じたかを考える手がかりを得たい。

篠原琢
「祖国をめぐる変奏曲―ベーメン・ドイツ人歴史協会における歴史の再構成」

本報告では、1862年に設立され、1945年まで存続したベーメン・ドイツ人歴史協会Verein fur die Geschichte der Deutschen in Bohmenに集った人々の祖国観を、とりわけその活動の初期に焦点をあてて、検討することとする。この協会の人々は、きわめて自由主義的な「ベーメン・ドイツ人」の歴史を構成するにあたり、「狭義の祖国das engere Vaterland」としてのベーメン、「広義の祖国das grosere Mutterland」としてのドイツ・ライヒという二重の祖国を想定した。それは、1848年革命期の失われたドイツ国民像に対応する

1848年革命で明らかになったのは、スラヴ系の国民運動(≒チェコ国民運動)が存在し、ドイツ国民運動に強力な異議申し立てを行ったことである。その後、19世紀後半、チェコ社会は非常にダイナミックな発展をとげ、チェコ語によるコミュニケーションは、社会のほぼ全領域で実現するようになった。このように疑いない「ライヒ」の領域内で、独立した国民社会が展開した、という意味でベーメンは特異な場であった。となっている。

チェコ国民社会は、ベーメン王国の諸邦の歴史を再領域化しながら(チェコ国民史の構想)、国民化の運動、制度化を進展させた。それに対して、普遍主義に依拠していたドイツ系住民にはどのような応答が可能だったのだろうか。1848年革命当時には、チェコ国民主義の運動とドイツ国民主義は非対称の関係にあった。チェコ国民社会が社会的な現実となる中で、また、1848年革命後、ライヒの国民的再領域化が政治的現実でなくなったなかで、ベーメンにおける「ドイツ」像はいかなるものであったのか。本報告は「未完に終わったプロジェクトとしてのドイツ国民」からドイツ史を考え直すものでもある。

吉岡潤(津田塾大学)
「戦後ポーランド領土の創造と想像−国境線移動・強制移住・引き揚げ-」

ヨーロッパ東部境界地域にとっての20世紀前半は、多民族空間において相互に重なり合い多文脈的に構成されていたパトリアが、第一次世界大戦後の国民国家体系への移行の中で、「国民」と国民によって構成される「国土」へとドラスティックに収斂していく時期だった。そのヨーロッパ東部において、ポーランドは第二次世界大戦を挟んだ東西国境線の大幅な移動と、それに伴う民族構成の劇的な変化を通じてポーランド人「単一民族国家」へと近づいたという点で際だった存在である。本報告では、パトリアの「国民」および「国土」への収斂という文脈に第二次世界大戦末期から戦後初期にかけてのポーランドを位置づけ、戦後に権力を掌握した共産政権が、国境線移動後の新しいポーランド領土をどのように「ポーランドのもの」にしようとしたのか、同時期に未曾有の規模で生じた人の移動に着目しつつ検討する。

ポーランドの戦後政権は、新しい領土をポーランド人の土地にすることでポーランド化しようとした。報告では、具体的に、ポーランドがドイツから獲得した新領土(「回復領」と称された)に視点を定め、そこからのドイツ人の「追放」、シロンスク(シュレージエン)など境界地域における住民のドイツ人・ポーランド人への二分化、ソ連領となったポーランド旧東部領から新領土へのポーランド人の移住(「引き揚げ」と称された)を通じての「ポーランド化」の過程を追う。領土・民族問題の20世紀的解決なるものがあるとして、それが「国民」の領域と「国土」との一致への強迫を特徴とするならば、本報告のケースはその極端な型の一つと言えるだろう。国境線移動の結果、国民と国土の一致からかけ離れてしまった戦後ポーランドにおいて、にもかかわらず両者の一致が目指されたことの意味を考えてみたい。

鈴木健太(日本学術振興会)
「社会主義ユーゴスラヴィアにおける「ナロード」
-1980年代末の大衆運動とナショナリズム」

第二次世界大戦後に成立した社会主義ユーゴスラヴィアは、1980年代後半の体制改革をめぐる対立とナショナリズムの高揚を経て1991年に崩壊し、連邦の主な構成主体である民族が、ほぼすべて独立によって国民国家を得るに至った。多民族的な国家の最終的な解体、またそれが90年代初頭の民族間の戦争を伴ったことを踏まえ、一般にこの連邦国家では、民族の概念およびそこに収斂する帰属意識が、現在に通ずる形で政治社会の中心に位置したとみなされる傾向にある。だが当時の社会主義体制において、通常「民族」と訳出される〈ナロードnarod〉の概念は、ネイションとしての主体だけでなく、社会主義国家の建設主体としての普遍的な「人民」を意味するなど、多義的に理解される政治主体であったと考えられる。

本報告では、社会主義ユーゴスラヴィアにおけるこの複相的な「ナロード」の諸相について、1980年代末に連邦全土で顕著になった幾つかの大衆運動を手がかりに考察したい。連邦解体の直前にあたるこの時期、80年代を通じての深刻な経済危機を受けて労働者のストライキが多発すると、その動きは、コソヴォ問題を背景とした憲法改正、官僚支配批判といった問題とともに、体制全体の危機が共有されるなかで政治化し、その結果、他の東欧社会主義国と同様、諸改革を求める大規模なデモや政治集会が頻発した。従来、これらの運動については、民族的な主体とその価値が正統化される場として解釈されることが多い。このため、歴史的には「民族」と「人民」の概念を包摂する「ナロード」は、前者の表象として指摘されるに留まり、その複相性は依然として十分に検討されていない。この点を踏まえ、本報告では、「ナロード」が実際の運動のなかでどのように立ち現われ、それまでの体制下では見られなかった大衆的な政治参画および動員の展開にどう結びついていたのか、その過程を再検討する。それによって、連邦解体後の国民史の文脈では平準化されがちな主体としての民族の動態を、社会主義時代における政治参加とその変容から考えてみたい。

C1:ヨーロッパ・ユダヤ人問題の波及 「ユーラシア現代史」への視座(11号館 A301)

企画目的

19世紀末ヨーロッパ・ユダヤ人の圧倒的多数は、帝政ロシア、特に「ユダヤ人定住地域」と呼ばれたバルト海から黒海沿岸に至るロシア西部に集中していた。同時に19世紀末から20世紀にかけてのロシア帝国による中東鉄道建設とハルビン建都の結果、短期間のうちに、ユダヤ人は辺境の地に確固たる経済的、社会的地位を築き上げていた。ロシア革命と内戦を経て、極東のハルビンは亡命ロシア人の政治、文化の一大中心、反革命派の拠点となっていく。1930年代日本統治下のハルビンは革命前のリベラルな都市から一転し、ユダヤ人を敵視するロシア・ファシスト党が跋扈する。その一方で、ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動が独自の発展と展開を見せることになる。本シンポジウムはロシア革命からユーラシアの東西に離散した亡命ロシア人社会と「ユダヤ人問題」の諸相を、特に極東ロシアとハルビンに焦点をあて、ヨーロッパ世界との連動性と地域的な特異性の解明を、次の4つのテーマからこころみるものである。

1)内戦・干渉戦期にシベリア、極東に波及した「ユダヤ人問題」と反ユダヤ主義の実相を、特に「沿アムール臨時政府」首班スピリドン・メルクーロフの思想と活動に着目して明らかにする。2)帝国崩壊後のロシア・ディアスポラ世界におけるロシア・シオニズム運動とハルビンにおけるシオニズムの跨境性を、アブラハム・カウフマンの雑誌『エヴレイスカヤ・ジズニ』を分析し、検証する。3)革命後多様な政治運動を繰り広げた亡命ロシア人社会におけるロシア・ファシスト党の生成と発展およびその特徴を、ハルビンにおける同党指導者コンスタンチン・ロザエフスキーの思想と行動を手掛りに検討し、極東におけるファシズムのあり方を歴史的に考察する。そして4)極東における反ユダヤ主義、ファシズム、シオニズムの「結末」と戦後のユダヤ難民の運命を人と思想の移動に焦点をあてて考察する。

プログラム

9:00-9:05 趣旨説明:高尾千津子(東京医科歯科大学)

9:05-9:45 高尾千津子
「内戦期ロシア極東の「ユダヤ人問題」と反ユダヤ主義」

9:45-10:25 鶴見太郎(埼玉大学)
「ロシア・シオニズムの亡命―ハルビンにとどまったシオニスト」

10:25-11:05 中嶋毅(首都大学東京)
「ロシア・ファシスト党の形成と拡大―ハルビンの事例から」

11:05-11:45 野村真理(金沢大学)
「満州――ロシア人・ユダヤ人・日本人の交錯」

司会:小森宏美(早稲田大学)

要旨

19世紀末ヨーロッパ・ユダヤ人の圧倒的多数は、帝政ロシア、特に「ユダヤ人定住地域」と呼ばれたバルト海から黒海沿岸に至るロシア西部に集中していた。同時に19世紀末から20世紀にかけてのロシア帝国による中東鉄道建設とハルビン建都の結果、短期間のうちに、ユダヤ人は辺境の地に確固たる経済的、社会的地位を築き上げていた。ロシア革命と内戦を経て、極東のハルビンは亡命ロシア人の政治、文化の一大中心、反革命派の拠点となっていく。1930年代日本統治下のハルビンは革命前のリベラルな都市から一転し、ユダヤ人を敵視するロシア・ファシスト党が跋扈する。その一方で、ユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動が独自の発展と展開を見せることになる。本シンポジウムはロシア革命からユーラシアの東西に離散した亡命ロシア人社会と「ユダヤ人問題」の諸相を、特に極東ロシアとハルビンに焦点をあて、ヨーロッパ世界との連動性と地域的な特異性の解明を、次の4つのテーマからこころみるものである。

1)内戦・干渉戦期にシベリア、極東に波及した「ユダヤ人問題」と反ユダヤ主義の実相を、特に「沿アムール臨時政府」首班スピリドン・メルクーロフの思想と活動に着目して明らかにする。2)帝国崩壊後のロシア・ディアスポラ世界におけるロシア・シオニズム運動とハルビンにおけるシオニズムの跨境性を、アブラハム・カウフマンの雑誌『エヴレイスカヤ・ジズニ』を分析し、検証する。3)革命後多様な政治運動を繰り広げた亡命ロシア人社会におけるロシア・ファシスト党の生成と発展およびその特徴を、ハルビンにおける同党指導者コンスタンチン・ロザエフスキーの思想と行動を手掛りに検討し、極東におけるファシズムのあり方を歴史的に考察する。そして4)極東における反ユダヤ主義、ファシズム、シオニズムの「結末」と戦後のユダヤ難民の運命を人と思想の移動に焦点をあてて考察する。

高尾千津子(東京医科歯科大学)

高尾千津子(東京医科歯科大学)
「内戦期ロシア極東の「ユダヤ人問題」と反ユダヤ主義」

二月革命による帝政崩壊と臨時政府の樹立後、新生ロシア建設のため、亡命先のアメリカを離れ帰国した「ロシア人」はおよそ2万人を数えた。日本経由の極東ルートはロシア帰還の重要な選択肢となり、極東の諸都市には、亡命先からロシアへと戻ったユダヤ人活動家や、釈放された政治犯たちによる積極的な政治参加が見られた。1917年夏の政治的混乱の深まりとともに、極東でも反ユダヤ主義が強まり、ボリシェヴィキによる権力奪取後、「ボリシェヴィキの災禍」がユダヤ人と結びつけられた。内戦期の1919年夏、シベリアの都市エカチェリンブルグでもポグロムが記録され、同時に帝政期にねつ造された文書『シオン議定書』がロシア内外で大量に流布したが、極東もその例外ではなかった。ザバイカル地方でユダヤ人社会の実態調査を行った日本軍第三師団報告には、ユダヤ陰謀論の影響が色濃く見て取れる。

本報告ではロシア革命と内戦によってシベリア、極東に拡大することになった「ユダヤ人問題」と反ユダヤ主義の背景と実相を明らかにしたい。とくに1921年5月の政変によってウラジオストクで樹立した最後の反革命派政権「沿アムール臨時政府」とその首班スピリドン・メルクーロフの反ユダヤ主義に着目し、同政権に対するウラジオストクやハルビンのユダヤ人の反応や国際的な反響、日本の「ユダヤ人問題」に対する態度を考察する。

鶴見太郎(埼玉大学)
「ロシア・シオニズムの亡命―ハルビンにとどまったシオニスト」

ロシア帝国においてロシア語で活動していたシオニストは、帝国内でのユダヤ人の地位向上に主要な関心を向けていた。帝国が崩壊したのちも、ロシア語でのシオニスト活動は東西の亡命地で継続した。本報告は極東での言論活動に着目し、当該シオニズムの特徴を見ながら、帝国崩壊のユダヤ・ナショナリズムへの影響を検証していく。

まず、1919年からイルクーツクで1年間発行されていたシオニスト週刊紙『エヴレイスカヤ・ジズニ』を紐解く。本紙は、かねてよりシベリアで活動していたシオニストを基点とした週刊紙であるが、人材面でその後との関連が深い。本紙から読み取れる特徴の一つは、シベリア・ユダヤ人の「余裕」である。一般にヨーロッパ・ユダヤ人の状況は東に行くほど悲惨になるとの想定があるが、シベリアのユダヤ人は法的にも社会的にも比較的恵まれており、シオニズム運動も、裕福なユダヤ人が西方の悲惨な同胞を援助するためのものであった面が強い。言語・文化面ではロシア化していた彼らにとって、世界のユダヤ人との一体感の獲得にシオニズムの意味があった。

こうしたシオニズムの「国際化」は、上海で発刊され、程なくしてハルビンに移って日本の終戦近くまで発行された『シビル・パレスチナ』(のちの『エヴレイスカヤ・ジズニ』)においてさらに進展した。基盤としてのロシア帝国を失ったことの影響か、紙面は、居住地やロシアとの政治的関わりについての記事にかわり、パレスチナの入植地の様子やその発展計画についての記事が多く占めるようになる。その一方で、ハルビンのユダヤ人に移民を呼びかける記事は限定的で、民族的な投資先としてパレスチナは描かれていた。遠隔地ナショナリズムと定義しうるこうした動きは、投資を通してユダヤ人の一体感を実感するとともに、国際的な舞台でユダヤ人の民族性の承認を目指すという意味で、「資本主義シオニズム」とも呼べるものだったといえよう。

中嶋毅(首都大学東京)
「ロシア・ファシスト党の形成と拡大―ハルビンの事例から」

1924年に中東鉄道(東支鉄道)が中ソ合弁企業となり、亡命ロシア人コロニーであったハルビンにソ連国籍者が現れてから、ハルビンでは「白系ロシア人」とソ連国籍者との対抗が顕在化した。こうした中で1925年に、ロシア学生協会の下にロシア・ファシスト組織が形成された。1925年にソ連からハルビンに移住した法科大学学生ロザエフスキーは、積極的にファシスト運動に参加して宣伝活動に従事し、ファシスト組織を代表する人物となった。伝統的な反ソ運動の破綻を直視しつつ、ロシア人ファシスト指導者たちは、旧体制の単なる復興とソビエト社会主義の双方を否認した。それに代えて彼らは、「神・民族・労働」をモットーに掲げて、イタリアのファシズム理念をモデルとする「連帯主義」に基づいた新しい社会秩序を追求した。大恐慌の影響による高い失業率に対する不満を背景に、ロシア・ファシストのプロパガンダは白系ロシア人の若者を徐々に引きつけていった。 1931年にロシア・ファシストは初めての大会を開催し、そこでロシア・ファシスト党が設立された。君主主義者のコスミン少将がファシスト党総裁に選出されたが、実際には党の指導者は書記長のロザエフスキーであった。 ロザエフスキーは1931年から関東軍ハルビン特務機関と密接な関係を持っており、 ファシスト党メンバーは1932年の日本軍によるハルビン占領当初から積極的に特務機関と協力した。ファシスト党は、特務機関の庇護下で満州の白系ロシア人への影響力を拡大することを目指した。3,000人の党員を擁するまでに成長したロシア・ファシスト党が1933年に第2回党大会を開催した際に、 ロザエフスキーは党内でのリーダーシップを確立した。しかし同時にロシア・ファシスト党の活動は特務機関の統制下に置かれ、同党は満州における日本の利益のために利用されることになった。

野村真理(金沢大学)
「満州――ロシア人・ユダヤ人・日本人の交錯」

本年、開戦100周年をむかえる第一次世界大戦において、敗戦国ドイツと戦勝国の一員であった日本では、戦争そのものの体験も、戦後の状況もまったく異なる。しかし、それにもかかわらず戦後の両国に等しく取り憑いたのが、総力戦を戦い抜くための生命圏という強迫観念であった。

大戦中、イギリスによる大陸封鎖で飢餓に苦しんだドイツは、戦後、とりわけ食糧自給圏確保のため、ポーランド領有を自国の生命線と考え、他方、戦後、中国での権益をめぐってアメリカと対立を深め、日米全面戦争をも予測せざるをえなかった日本にとって、生命線は満蒙であった。しかし、ナチ・ドイツの生命圏構想が人種主義にもとづき、現地住民の排除、奴隷化を前提としていたのに対し、ヴェルサイユ会議で黄禍論を念頭におきつつ人種的差別撤廃を要求した日本において、満蒙支配は、建前上、民族協和にもとづかざるをえなかった。

19世紀末、ロシア帝国による東清鉄道建設開始にともない形成された満州のロシア人社会とユダヤ人社会は、1917年の革命によるロシア帝国崩壊後は、反革命派や革命難民の流入地となる。両社会は、東清鉄道の新たな支配者となった日本のもとで、日本を利用し、また、日本から利用される関係を取り結びつつ、括弧付きの「民族協和」の満州国時代を生き延びるが、1945年の日本の敗戦で満州が共産化した中国の手に帰したとき、もはやその地に存続する可能性を見失い、消滅した。

本報告は、先の高尾、中嶋、鶴見の報告を日本人というアクターを加えて補足し、満州という舞台でロシア人、ユダヤ人、日本人の交錯を跡づける。

C2:動乱時代前後のロシア (11号館 A301)

企画目的

2013年はミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに選出されてから400年目であった。それを記念してロシア国内では様々な催しが行われ、出版界でも、ロマノフ朝に関する帝政時代に出た書籍の復刻から始まり、専門書や史料集、さらには初心者向けのものに至るまで実に多くの本が刊行された。その中には、いままであまり研究対象とされてこなかったツァーリを含む個人の伝記や治世に加えて、このロシア第2の王朝を誕生させることになった「動乱時代」やその前後を扱う研究や史料集もある。そもそもロマノフ朝成立前後のロシアは国家存亡の危機にあった。ロシアにおける上のような動向は、祖国の危機を救った、そしてその後の強大な帝国への道を築くことになるいわば「強いロシア」の復活を念頭に置いたものと言える。

では、われわれはこのロマノフ朝300年の歴史をどのように研究すべきなのだろうか。すでに日本のロシア史研究は、ツァーリ体制や社会のもつ問題点および課題について論じ、それはロシア史研究の指針となった。16世紀のイヴァン4世(雷帝)、17〜18世紀のピョートル1世(大帝)、19世紀のアレクサンドル2世、そして20世紀のニコライ2世といったツァーリたちがその対象であった。その際、ツァーリたちの歴史学的研究に関する方法論について重要な提言もなされてきた。

われわれの「中近世ロシア諸法典の歴史的展開に関する研究」会は、現在、「動乱時代」の重要な史料である聖三位一体セルゲイ修道院の高僧アヴラーミー・パーリィツィンの手になる『歴史』の解釈・翻訳を進めている。そこに集ったのは歴史研究者だけではなく、言語学、文献学、宗教史、法学そして民俗学を専門とする研究者たちである。今回の企画は、報告者個人の問題関心に沿いつつも、ロマノフ朝成立前後のロシアの国家と社会の動きを多角的にみようとするものである。しかしその先にあるのは、ロマノフ朝がどのように成立したのか、ロシア正教がいかなるかたちでロマノフ朝を支えたのか、そしてやがて近現代ロシアの源流となるロシアの基層文化がいかに形成されたのかを明らかにすることだと考えている。

プログラム

14:30-14:35 趣旨説明・司会:豊川浩一(明治大学)

14:35-15:00 宮野裕(岐阜聖徳学園大学)
「ミハイル・ロマノフ治世下における権力の継承の正統化」

15:00-15:25 中澤敦夫(富山大学)
「動乱時代の歴史家の君主観」

15:50-16:15 草加千鶴(創価大学)
「中世ロシアにおける宣誓と神判」

16:15-16:40 三浦清美(電気通信大学)
「宗教戦争としてのスムータ - 環バルト海圏の宗教的寛容と不寛容」

16:40-16:50 コメント1:淺野明(山形大学)

16:50-17:00 コメント2:皆川卓(山梨大学)

17:00-17:30 質疑応答

要旨

2013年はミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに選出されてから400年目であった。それを記念してロシア国内では様々な催しが行われ、出版界でも、ロマノフ朝に関する帝政時代に出た書籍の復刻から始まり、専門書や史料集、さらには初心者向けのものに至るまで実に多くの本が刊行された。その中には、いままであまり研究対象とされてこなかったツァーリを含む個人の伝記や治世に加えて、このロシア第2の王朝を誕生させることになった「動乱時代」やその前後を扱う研究や史料集もある。そもそもロマノフ朝成立前後のロシアは国家存亡の危機にあった。ロシアにおける上のような動向は、祖国の危機を救った、そしてその後の強大な帝国への道を築くことになるいわば「強いロシア」の復活を念頭に置いたものと言える。

では、われわれはこのロマノフ朝300年の歴史をどのように研究すべきなのだろうか。すでに日本のロシア史研究は、ツァーリ体制や社会のもつ問題点および課題について論じ、それはロシア史研究の指針となった。16世紀のイヴァン4世(雷帝)、17〜18世紀のピョートル1世(大帝)、19世紀のアレクサンドル2世、そして20世紀のニコライ2世といったツァーリたちがその対象であった。その際、ツァーリたちの歴史学的研究に関する方法論について重要な提言もなされてきた。

われわれの「中近世ロシア諸法典の歴史的展開に関する研究」会は、現在、「動乱時代」の重要な史料である聖三位一体セルゲイ修道院の高僧アヴラーミー・パーリィツィンの手になる『歴史』の解釈・翻訳を進めている。そこに集ったのは歴史研究者だけではなく、言語学、文献学、宗教史、法学そして民俗学を専門とする研究者たちである。今回の企画は、報告者個人の問題関心に沿いつつも、ロマノフ朝成立前後のロシアの国家と社会の動きを多角的にみようとするものである。しかしその先にあるのは、ロマノフ朝がどのように成立したのか、ロシア正教がいかなるかたちでロマノフ朝を支えたのか、そしてやがて近現代ロシアの源流となるロシアの基層文化がいかに形成されたのかを明らかにすることだと考えている。

豊川浩一(明治大学)

宮野裕(岐阜聖徳学園大学)
「ミハイル・ロマノフ治世下における権力の継承の正統化」

1598年のロシアのツァーリ、フョードル・イヴァノヴィチの死は、13世紀以来の長い間、公やツァーリの位を占めてきたモスクワのリューリク家の血筋が絶えたことを意味した。フョードル帝の死に始まる「動乱時代」には、君主になった者、また君主になろうとした者たちが数多く出現し、その各々が自らのやり方で、自らの君主即位の正当性を社会に向けて説明したのである。

1613年の「全国会議」で選ばれて即位を受諾したミハイル・ロマノフもまた例外ではなかった。それまでの動乱時代の15年の間に、首都において幾ばくかの権力を握った者の事例だけを数えても、5度の権力の交代があり、その他にも虎視眈々と地方から権力を狙う者が数多く存在していた。それゆえ、ミハイルおよびその政府にもまた、権力の交代が生じぬよう、様々な策をとる必要があった。本報告で取り上げる権力の正当化もその一つである。現代の目で見れば、1613年以降ロシア革命に至るまでのロシアでは、ロマノフ家の支配こそが正統であると考えられていたと思いがちであるが、この考えは、権力とその継承の正統性を構築する不断の作業・努力があって保たれ続けたことを忘れるべきでない。

そこで本報告では、その端緒と言える、ミハイルの権力継承の正当化を中心に考えたい。その際、正当化の根拠における若干の変化やその背景に注意したい。またそうしたミハイルの事例が、動乱時代の彼以前のツァーリたちの場合とどのように異なるのか、またその背景には何があるのかについても注意したい。更にもう一点。前の権力者たちをどのように見なしているのか、そのまなざしにも注目したい。権力の正当化には、以前の権力者の「問題点」の指摘がしばしばなされるが、それは他方で己が権力の正当化に反映されているからである。

中澤敦夫(富山大学)
「動乱時代の歴史家の君主観」

1598年にリューリク王朝最後のツァーリ、フョードル帝が没してから、1613年にロマノフ王朝の開祖ミハイル帝が即位するまでのいわゆる「動乱時代」に、ロシアでは4人の人物が、ツァーリの位に就いている。

この時代は、次々と交替するツァーリという未曾有の事態を受けて、あるべきツァーリとは何かという問題を論じた著作が多く書かれるようになった。本報告では、その代表的な文筆家アヴラーミイ・パーリツィンの著作『歴史』 を取り上げて、歴代のツァーリについての評価とその論拠を分析しながら、その君主観について考えたい。

著作で、ボリス・ゴドノフ帝の「罪」(神意の違反)として強調されているは「驕り」である。この罪は、ツァーリを無視した強権的行政、戴冠式での自らの力を恃む態度などにあらわれている。そして、その後発生した不作、飢饉、大火などは、このような「驕り」に対する懲罰のあらわれとしている。偽ドミートリイの治世は、かれを反キリストの到来の前兆として、終末論的に解釈される。このような解釈は、のちのミハイル帝を、反キリストの失墜のあとに登場する裁き手キリストとして描き出すのに役立っている。ヴァシーリイ・シュイスキイ帝は、人間がツァーリを選んだことの失敗の事例として描かれている。そこでは、ツァーリも民衆も、神威にもとづかない「誓い」(十字架接吻の儀式)を乱用し、簡単それを破るという罪を犯したという。

パーリツィンにとって、この3人のツァーリは、人の手によって選出されたという点では共通している。この人間の〈恣意〉に対する懲罰が「動乱時代」だった。そこから、ミハイル帝は〈神によって選ばれた〉ツァーリであることが強調され、その選出は、民衆が罪の大きさに気がつき、真に改悛したことによる、神の恩寵として解釈されている。

草加千鶴(創価大学)
「中世ロシアにおける宣誓と神判」

17世紀初頭に編まれ多くの写本を残した聖三位一体セルギイ修道院の高僧アヴラーミイ・パーリツィンによる『物語』は、ロシア動乱時代の最も重要な史料の一つに数えられている。『物語』は、ポーランド・リトアニア軍による攻撃から修道院がいかにして解放されたかを描いた作品であるが、同時代を生きた作者自らによる観察と彼によって収集された様々な記録の集成であるとともに、その鮮やかな描写によって「神によって守られしロシア」とその正当性を精神的・宗教的な立場から根拠づける役割を果たしている。

中世ロシアの諸文献において、異民族の侵攻は「正しき信仰から逸脱したことに対する、神による罰」であり、そこからの解放は「正しき信仰を保ったことに対する、神による祝福」であるという伝統的な捉え方が存在した。パーリツィンの『物語』における描写もまた、一貫してこの思考に基づいているといえよう。たとえば、『物語』の冒頭でパーリツィンは、全ルーシの大公ドミートリイ・イワーノヴィチを騙りツァーリの座についた破戒僧グリゴーリイ・オトレーピエフが、「神に背いたことによりしかるべき懲罰を受けむごい死に方をした」と評価しているが、作中に散りばめられた「神の意志に反する者たち」の悲惨な末路と「神の意志に沿った者たち」の勝利の対比は、信仰による結束の正しさを人々に呼びかけ、戦うための根拠を与えているという点で、きわめて興味深い。

本発表では、『物語』に見られるような精神的な立場からの正当化のプロセスに注目し、『物語』以前の作品、とりわけ諸年代記における類似の描写と比較する。また作中にたびたび登場し重要な役割を果たしている十字架への接吻、すなわち宣誓が、超自然的な力を根拠とした証明方法としてきわめて重大な意味を持つことに着目し、それが一体どのような効力を有していたのか、一方で宣誓への違背がどのような結果を生んだのかについても考えてみたい。

三浦清美(電気通信大学)
「宗教戦争としてのスムータ - 環バルト海圏の宗教的寛容と不寛容」

本報告は、16世紀後半から17世紀はじめにかけての、モスクワ大公国、ポーランド・リトアニア共和国、スウェーデン王国からなる環バルト海圏における宗教的な寛容と不寛容の諸相を検討することをつうじて、ロシアのスムータ(動乱)の宗教的なダイナミズムを考察する。

当該の時期、スウェーデンは、ヴァーサ朝のもとで国教となったプロテスタントを軸に、合理的な官僚制と国軍の創設によって、近代国家への道を歩んでいた。ポーランド・リトアニア共和国はルネサンスを深く経験し、宗教的な寛容を実現した。支配層のかなりの部分がプロテスタントに改宗したが、反宗教改革のうねりがおよぶと、カトリックへの揺り戻しも起こった。こうした状況のなか、スムータの影の主人公、ポーランド王ズィグムント3世(在位1587-1632)が現われる。スウェーデン、ポーランド両王家の血筋を引くズィグムント3世は、しかしながら、どちらにも居場所を見いだせず、狭量な反宗教改革主義者として、ロシアへの進出とそのカトリック化をもくろんだ。

ロシアでは、リューリク朝が断絶し、新しい政治体制が模索されていた。イワン雷帝の専制統治の苦い経験から、君主の権力を制限した大貴族の合議政体が、あるべき体制として浮上した。ポーランド側でも、クルシノの戦いの英雄、ジュウキエフスキが宗教的寛容にもとづく、ポーランド・リトアニア・ロシアの大連合の構想をいだいていた。彼らはズィグムント3世の子、ヴワディスワフをツァーリに据えようとした。

弱いポーランド王は強いロシア・ツァーリに憧れ、弱いロシア貴族は強いポーランド貴族に見習おうとしたのである。問題は、ヴワディスワフが正教に改宗するか、カトリックにとどまるかだった。この動きが表面化したとき、決然と行動を起こしたのがロシア民衆である。ロシア民衆は大貴族寡頭制に反対し、ツァーリ専制を支持した。強烈な反カトリック感情から国民義勇軍が組織され、結果、ポーランド軍を追い払われ、内乱は終結した。

以上述べてきたように、本報告が提示するのは、スムータを終結に向かわせた一連の動きを、正教にもとづくロシア民衆のクーデタと見る視点である。

D1:北大西洋海域の船をめぐる文化空間と海民のリテラシー 海を飼い馴らすために (11号館 A304)

企画目的

17世紀後半から19世紀の北大西洋海域を全体として捉え、一つのアトランティック・ヒストリーを描きたい。そこでは、パラダイムの転換をはかり、「陸の人」の視点からではなく、海からの視点で過去を読み直したい。こうした問題提起の先行研究には、B.ベイリンのAtlantic History、T.ファローラらのThe Atlantic World、B.クレインのSea Changes: Historicizing the Oceanがある。さらに、M.レディカーのThe Many-Headed Hydra、A.カバントゥのLa mer et les hommesなどの一連の研究や、G.ル・ブエデクのEntre terre et merなどがあるが、本シンポジウムの基盤である共同研究は、こうした先行研究に刺激を受けて、北大西洋海域における、複層的な「海民の多面的活動」を捉え、それを総合化しようとするものである。

本シンポジウムでは、共同研究の一端しか紹介できないものの、人、モノ、ことを移動させる海洋ネットワークと、その結節点に生み出される文化共同体の連鎖に注目することで、そこに見出せる海民のリテラシー(「情報」の公開性、共有・伝播による影響)を抽出する。ことに、このネットワークを作動させ、時には結節点という文化空間を凝縮して表す「船」の空間に焦点を当て、船を介して紡がれる海民の世界をマンタリテの次元にまで切り込みたい。具体的には、北大西洋を往行した奴隷船、移民船、商船、漁船、あるいは難破船などの船を取り上げ、それに関わった商人,船長、水夫、漁民、地域住民などを介した情報コミュニケーションの実態を検証する。そして、それらの海民が果たした役割とともに、その文化共同体に共有される情報のテキストを分析することで、ヨーロッパ、アフリカ、カリブ海地域や、アメリカの海民たちによる、北大西洋の情報の交流による共通空間の広がりを捉えることにする。

プログラム

趣旨説明・司会:田中きく代(関西学院大学)

9:00-9:15 田中きく代
「総論」

9:15-9:40 阿河雄二郎(関西学院大学)
「ナポレオン時代の奴隷貿易 利潤と情報」

9:40-10:05 笠井俊和(名古屋外国語大学)
「18世紀アメリカにおける海運・船乗り・情報」

10:05-10:30 金澤周作(京都大学)
「遭難する船をめぐるリテラシー―近代イギリスの難破譚を手掛かりに」

10:30-10:40 コメント1:佐保吉一(東海大学)

10:40-10:50 コメント2:布留川正博(同志社大学)

要旨

本プロジェクトは、18世紀から19世紀の北大西洋海域を全体として捉え、一つのアトランティック・ヒストリーを描きたいという思いから、B.ベイリン、M.レディカー、A.カバントゥなどの研究に刺激を受けて、複層的な「海民の多面的活動」を捉え、総合化しようとしている。本シンポジウムでは、その一部として、人、モノ、ことを移動させる海洋ネットワークと、その結節点に生み出される文化共同体の連鎖に注目することで、そこに見出せる海民のリテラシー(「情報」を取得し、理解し、活用する能力)を抽出する。ここでは、このネットワークを作動させ、時にはその結節点の文化空間を凝縮して表す「船」に焦点を当て、船を介して紡がれる海民の世界をマンタリテの次元にまで切り込みたい。具体的には、北大西洋を往行した奴隷船、移民船、商船、漁船、あるいは難破船などの船と、それらに関わった商人,船長、水夫、漁民、地域住民といった海民を対象に考察することで、北大西洋の「情報」の交流による共通空間の広がりを捉えることにする。

田中きく代(関西学院大学)

田中きく代
「総論」

北大西洋の海は、18世紀に入ると、航海術などの情報はほぼ行き渡り、かなり安定した航海が想定されるようになった。交易ルートも定まり、ことにアメリカ独立戦争を経て、ナポレオン戦争が終わる頃になると、ヨーロッパとアメリカの主要港間で定期便も出るようになった。高速の帆船であるクリッパー船が往来するようになり、移民業でも示されるように、北大西洋海域には、トランスナショナルな情報のネットワークが張り巡らされた。

しかし、19世紀後半に蒸気船に代わるまで、海民にとって、帆船の時代は危険と背中合わせであった。天候、地理的個性、海賊等、偶発的なものにより,航海は依然として不確実なものであった。海は可能性に満ちた存在であったが、その恩恵も偶然に左右された。それゆえに、海に乗り出す海民たちは、この海という自然を「飼い馴らし」、自らのものとして、より確実なものにしようとした。海を知り、船を知るための情報を常に最新のものに書き換え、それを着実に利用する能力であるリテラシーを磨かなければならなかった。

本シンポジウムでは、こうした不確実な海を飼い馴らすリテラシーについて、船に焦点をおいて報告することになるが、船こそが情報を共有する場であり、言語や人とともに、海を飼い馴らす手段であり、道具であったからである。各報告者の発表要旨は以下の通りである。

阿河雄二郎(関西学院大学)
「ナポレオン時代の奴隷貿易 利潤と情報」

16〜19世紀においてヨーロッパ諸国は奴隷貿易(いわゆる三角貿易)をおこない、約1100万人の奴隷をアフリカから新大陸に運んだといわれる。フランスの組織的な奴隷貿易は17世紀後半に始まり、18世紀後半に頂点に達し、フランス革命=ナポレオン期の停滞を挟んで、1848年に禁止令が出されるまで続いた。ちなみに18世紀のフランスの移送数は約120万人で、イギリス(約250万人)、ポルトガル(約180万人)に次ぐ第3位である。

もっとも、当時の海港都市や貿易商人にとって、奴隷貿易はアメリカへの直行貿易や遠洋漁業と何ら変わらない営利活動のひとつだった。近年のフランスでは海洋史研究が盛んで、奴隷貿易についてもその実態が鮮明になってきた。たとえば、ボルドーやナントなどからの出港数、奴隷船の行程や積荷の内容、貿易商人・船主・船長・船員の状況である。奴隷貿易の収益性の問題も重要である。ただ、全体的なイメージはともかく、個々の事例に即してみると、奴隷貿易はかなりのリスクを伴う不確実なものだった。というのも、それは三角形のそれぞれの辺で事情を異にする交易活動の総和であり、どこで異変が生じても破綻の原因となりえたからである。換言すると、奴隷貿易は、航路の選択、交易品の選別、奴隷の売買などに熟達した能力が求められる高度な交易システムであった。

本報告は、ナポレオンが奴隷貿易の再開を宣した1802年、ナントの貿易商人トロティエが艤装した「Bonne-Mere」号が出航して1803年に帰港するまでの顛末を中心に追い、貿易商人がどのように奴隷船を仕立てたか、どのようにリスクを分散させたか、そのためにどのような情報ネットワークを構築していたかを検討したい。18世紀以降、船の航行は安全の度合いを増していたとはいえ、やはり海という不確かな自然との対峙のなかで、貿易商人は最大の利潤を獲得すべく、その手腕を試されていたのである。

笠井俊和(名古屋外国語大学)
「18世紀アメリカにおける海運・船乗り・情報」

18世紀のイギリス領アメリカ植民地、とりわけ港町では、人々が海の向こうからもたらされる情報に触れる機会は決して少なくなかった。当時の新聞には、北米やカリブ海のニュースはもちろん、本国イギリスをはじめ、大西洋の彼方の出来事を報じた記事が溢れている。かかる貴重な情報をアメリカに伝えたのは、帆船を操り海を渡る船員であった。報告では、18世紀前半のボストンの事例を中心に、陸に暮らす民にとっての情報伝達媒体としての船長と水夫の役割を論じる。

大西洋を往来する商船の船長は、出港のたびに手紙の輸送を引き受けた。手紙が改ざんされたり、何者かが船長から手紙を奪おうとした事例は、情報の重要さを物語る。新聞などの印刷物の輸送も船長が担い、たとえ嵐で新聞を失っても、彼らは自らの記憶を頼りに記事の内容を伝えた。洋上では他船の船長と情報を交換し、港に着けば、船長は在地の有力商人やプランターの邸宅で情報を提供した。

一方、商船の水夫たちもまた、船長とは質の異なる情報の伝達者であった。反抗的で、秩序を乱す労働者としての側面が強調されやすい水夫であるが、彼らは新聞記事の登場人物として、海の危険性を陸の民に知らしめた。ストーリーテラーとしての才能に長けた船乗りは多く、彼らは時には新聞記事の情報提供者となり、また時には港町の波止場や酒場で語り手となった。彼らが(時には誇張して)語った航海の物語は、陸の民にとって一種のエンターテインメント性をも有していたと考えられる。

当時、帆船とは単に情報の記録媒体を輸送するための道具にとどまらず、船に積まれたモノや、船を操るヒトが、それぞれに質の異なる情報を帯びていた。海は依然として不確かなものであり、海を介するあらゆる営為にリスクが伴うこの時代において、陸民は海を飼い馴らすため、海民たる船員がもたらす情報を欲したのである。

金澤周作(京都大学)
「遭難する船をめぐるリテラシー―近代イギリスの難破譚を手掛かりに」

本報告は、近代イギリスにおいて人が「海」をどのように読んだのかという問題を、「海難」の切り口から検討する。商業・軍事の両面での海洋進出は、不可避的に海難を伴った。イギリスでは17世紀半ばから18世紀後半にかけて、3〜5%の割合で毎年難破が生じ、19世紀初頭のある史料によれば、毎年5,000人が海で命を落としていた。1793年から1801年にかけてイギリス海軍は交戦により62隻を失っているが、海難による喪失はそれをはるかに上回る152隻に上った。このように海難は海の不確実性を象徴する身近で深刻な現象であった。だからこそ、とくに18世紀から19世紀半ばにかけて、イギリスとアメリカでは、実際にあった海難事故に基づく大量の「難破譚(shipwreck narratives)」が出版された。これは他国の出版事情と比しても突出した現象である。

先行研究では、難破譚の意味(読まれ方)を、宗教性や道徳性、娯楽性や実用性の点から解釈してきた。これに対し、本報告では難破譚の歴史叙述としての特性に注目し、登場人物たちによる海のリテラシー、換言すれば、出来した危機に際してかれらが諸情報を収集・活用した仕方をも俎上にのせたい。中心的に用いる史料は、1804年から数年かけて形成された全6巻の難破譚アンソロジー『マリナーズ・クロニクル』で、近世以降のイギリスのみならず、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、ロシアなど諸国の船にまつわる著名な海難譚を計196話収めている。

さまざまな難破譚を精読すると、そこには従来の研究が強調してきた叙述の特徴がはっきりあらわれるだけでなく、海の社会史とでもいえる興味深いディテールがそこここに見出せる。そして何より難破譚は、当時海難に遭った人びとがどのように生存したのか、また彼らが期せずして闖入した世界が、彼らをどのように生存させたのか、させなかったのかという、不確実な海を飼い馴らす「リテラシー」の具体相を教えてくれるのである。

D2:「移民」概念の再検討とグローバル・ヒストリー (11号館 A304)

企画目的

グローバル化の進展により人間の移動がいっそう頻繁となったことで、歴史学の分野においても人間の空間的移動をめぐる研究のさらなる展開が求められている。近年の移動をめぐる歴史研究は、国境を越える移動としての移民に関する研究を中心とし、移民によるアイデンティティ変容やエスニック・グループの形成、移民集団の同化・統合・排斥といったテーマに傾斜する傾向にある。もちろん、こうしたテーマが現代社会を理解するうえで喫緊の課題であることは言うまでもないが、それらを分析するためには、そもそも国内移動と国境を越える移動とは何が異なるのか、移動の動機(経済的/政治的/社会的)は移動のあり方にどのような差異を生み出すのか、自由意志による移動と強制による移動とをどこまで峻別できるのか、といった移動の論理を考察し、そのうえで日本語において「移民」と総称される概念を再検討することが不可欠であろう。また、今日のグローバル・ヒストリーの展開をふまえるならば、ヨーロッパ世界やヨーロッパと南北アメリカ・アフリカが形作る大西洋世界に限定することは許されず、アジア・オセアニア・南北アメリカが形作る太平洋世界にも視野を広げ、グローバルに移動するさまざまな集団が交差する場で生み出されていく人的ネットワークに着目していく必要がある。

以上の問題意識に基づき、本シンポジウムでは1)国内移民の論理、2)ヨーロッパ世界内部での国境を超える移民の論理、3)大西洋世界での移民の論理と本国・目的国間のネットワーク形成、4)大西洋世界での移民の論理と社会運動の構築、5)太平洋世界での移民の論理と社会運動の構築、という5つの報告を行い、移民概念の再検討および空間的移動と社会運動の構築との関わりについて討議する。

プログラム

14:30-14:35 趣旨説明・司会:北村暁夫(日本女子大学)

14:35-15:05 青木恭子(富山大学)
「帝政ロシア国内移住者の移動の論理と移住政策−移住者の出身地と入植地の分析から」

15:05-15:35 平野奈津恵(日本女子大学)
「19世紀フランスにおけるベルギー移民と差異の創出−北仏炭鉱都市の事例をてがかりに」

15:35-16:05 崎山直樹(千葉大学)
「アイルランド移民ネットワークの形成と土地戦争−反帝国意識と女性運動の共鳴」

16:05-16:35 田中ひかる(大阪教育大学)
「ロシア出身のユダヤ系移民アナーキストによるアメリカ合衆国における活動 1905〜1920」

16:35-17:05 篠田徹(早稲田大学)
「I.W.Wを通して見たトランス・パシフィック運動史」

要旨

グローバル化の進展により人間の移動がいっそう頻繁となったことで、歴史学の分野においても人間の空間的移動をめぐる研究のさらなる展開が求められている。近年の移動をめぐる歴史研究は、国境を越える移動としての移民に関する研究を中心とし、移民によるアイデンティティ変容やエスニック・グループの形成、移民集団の同化・統合・排斥といったテーマに傾斜する傾向にある。もちろん、こうしたテーマが現代社会を理解するうえで喫緊の課題であることは言うまでもないが、それらを分析するためには、そもそも国内移動と国境を越える移動とは何が異なるのか、移動の動機(経済的/政治的/社会的)は移動のあり方にどのような差異を生み出すのか、自由意志による移動と強制による移動とをどこまで峻別できるのか、といった移動の論理を考察し、そのうえで日本語において「移民」と総称される概念を再検討することが不可欠であろう。また、今日のグローバル・ヒストリーの展開をふまえるならば、ヨーロッパ世界やヨーロッパと南北アメリカ・アフリカが形作る大西洋世界に限定することは許されず、アジア・オセアニア・南北アメリカが形作る太平洋世界にも視野を広げ、グローバルに移動するさまざまな集団が交差する場で生み出されていく人的ネットワークに着目していく必要がある。

以上の問題意識に基づき、本シンポジウムでは1)国内移民の論理、2)ヨーロッパ世界内部での国境を超える移民の論理、3)大西洋世界での移民の論理と本国・目的国間のネットワーク形成、4)大西洋世界での移民の論理と社会運動の構築、5)太平洋世界での移民の論理と社会運動の構築、という5つの報告を行い、移民概念の再検討および空間的移動と社会運動の構築との関わりについて討議する。

北村暁夫(日本女子大学)

青木恭子(富山大学)
「帝政ロシア国内移住者の移動の論理と移住政策−移住者の出身地と入植地の分析から」

帝政末期のロシアにおいては、ヨーロッパロシアからウラルを越えたアジアロシアへの農民移住は、辺境地域の開発や帝国空間の支配強化といった目的をもつ国家的事業として推進されていた。政府は、希望者の中から確実に定着できそうな世帯を選んで正式に移住を許可し、様々な特典を与えて入植区画への移住を支援した。しかしながら、このような正式な手続きを踏まずに無許可で移住する世帯も後を絶たず、無許可移住者は全体の約四割を占めていた。

移住許可によって得られる利益の大きさにもかかわらず、一切の支援が受けられない無許可移住が後を絶たなかった理由は様々に考えられるが、その中でも本報告が注目するのは、移住先選択の問題である。どこへ移住するかというのは、移住農民にとって極めて重要な選択である。1890年代半ば以降、移住者に分与される入植区画はタイガ密林地帯など入植困難地域に偏在し、移住者が多く集まる入植しやすい地域への移住許可は出にくくなっていた。移住者には、政府から支援を受ける代わりに入植困難地域へ行くか、あるいは支援を受けずに行きたい場所へ行くか、という選択が求められた。送出県ごとに移住許可の有無による行き先の違いを分析したところ、いわば「移住の伝統」の有無がその選択に少なからぬ影響を及ぼしているらしいことが明らかとなった。

たとえ政府支援を受けようとする移住者であっても、その移住先を当局が計画的に振り分けるのは困難だった。1909年には、送出県・郡ごとに登録できる入植区画をあらかじめ割り当てるシステムが導入されたが、割り当てた区画の多くが埋まらず、逆に無許可移住が増えるという結果をもたらし、わずか2年で廃止された。帝政ロシア政府は、国家的事業の目的に添うよう移住統制の試みを続けてきたが、移住農民にはそのような国家の思惑など無関係であり、自分たちの論理にしたがって移住を決断し、移住先を選択し、行動を起こしてきたのである。

平野奈津恵(日本女子大学)
「19世紀フランスにおけるベルギー移民と差異の創出−北仏炭鉱都市の事例をてがかりに」

19世紀半ばより北フランスの炭鉱地帯には「労働者都市(cite ouvriere)」と呼ばれる、炭鉱会社により計画的に建設された「都市」が田園地帯のただ中に忽然と出現し、フランス国内からだけでなく、国境を越えたベルギーからも、多くの人びとが労働と生活の場をもとめて移住をしてきている。これらの新興都市へと流入したフランス人とベルギー人の移動は、それぞれ国内移動と国家間移動とに分類されるものであるが、実はその多くがベルギー=フランスを東西に横切るひとつらなりの石炭鉱脈地帯内における人の移動にすぎず、住民たちは同じ方言を話し、同じ炭鉱にまつわる文化を共有している。一見すると、彼らベルギー人とフランス人住民との間に、何ら差異を見出だすことはできない。ところが、1892年8月に北仏最大の炭鉱都市ランス(Lens)において、ベルギー人に対する排斥事件が発生し、騒動は周辺の労働者都市へと次々と広まり、両国の新聞で大々的に報じられるまでになる。ベルギー人の国境を越える移動が、ここでは社会的緊張を生み出している。

近年のフランス移民史研究において、19世紀末の移民排斥事件はフランスのナショナリズムのあらわれと理解され、国民統合という側面から論じられている。この指摘はきわめて道理にかなっているのだが、実際に移民と生活を共にし、事件の渦中にあった人びとの視座からは十分に語られてはいない。本報告では、炭鉱都市の住民たち  フランス人とベルギー人  の移動の実態を明らかにするとともに、1892年の排斥騒動の具体像を当事者たちの行動や態度から跡づける。炭鉱都市に暮らす労働者とその妻と子どもたち、あるいは労働組合指導者は、国境を越える移動がもたらす差異といかに向き合い、どのように折り合いをつけるのか。北フランス炭鉱都市のベルギー移民の事例から、国境を越えることの意味について、考察をこころみる。

崎山直樹(千葉大学)
「アイルランド移民ネットワークの形成と土地戦争−反帝国意識と女性運動の共鳴」

19世紀後半のアイルランドでは、不在地主を含む大土地所有制への不満が高まり、1879年に設立されたアイルランド土地同盟は、借地権の安定、公正な地代、借地権の自由販売からなる「3F」を掲げ、アイルランド全土においてアイルランド土地戦争を展開した。アイルランド史におけるこの運動の意義は、その参加者がカトリックの小作農に限定されず、プロテスタントの小作農、都市の労働者、そして国教徒の地主層を巻き込み、宗派、階層を横断する「国民」的な運動として発展していった点にあった。さらにこの運動の特徴として、北米大陸において広範な支援運動の組織化が行われたこと、そしてその中から女性による支援組織である「アイルランド婦人土地同盟」が誕生したことがあげられる。

19世紀半ばの「大飢饉」以降に本格化した北米大陸へのアイルランド人移民は、政治結社、労働運動を通じて結束し、特に都市においては、在地の政治権力と繋がりを深めながら、コミュニティを形成していった。このように北米大陸各地で誕生した無数のアイルランド人コミュニティは、アイルランド移民を主な読者とする新聞を通じて連携し、アイルランド土地戦争を支援する運動が広まっていった。特に労働者を主な読者とする『アイリッシュ・ワールド』紙は、「土地単税」を理論的な中核とする土地の国有化構想や、アフガニスタンやアフリカでの大英帝国の侵略行為への批判を土地戦争とを連関させ、論じていった。

本報告では、このような文脈の中で、当初アメリカ合衆国において、次いでアイルランドに設立されていった「アイルランド婦人土地同盟」に注目し、彼女らの主張や活動、そして統治権力、運動に参加していた男性や教会からの弾圧を明らかにすることで、大西洋世界における移民の論理と本国・目的国間のネットワーク形成が果たした役割を考察する。

田中ひかる(大阪教育大学)
「ロシア出身のユダヤ系移民アナーキストによるアメリカ合衆国における活動 1905〜1920」

本報告では、アメリカに移民してアナーキストとなったロシア出身のユダヤ人が形成した思想・運動に、移民の動機や移民の経験がどのように関わっているのか、という問題について検討する。ユダヤ人がアメリカに渡ったのは主として経済的な動機からだったと指摘されてきたが、アナーキストに注目すると、ユダヤ人の伝統から逃れることが直接的な動機であった事例が目立つ。1905年以降は政治活動を理由に逮捕・投獄から逃れるために移民した人々も増えている。こういった移民の動機と接点を持つ運動としては、19世紀末にロンドンやニューヨークでアナーキストが展開したユダヤ教を攻撃する活動が挙げられる。他方、ユダヤ系移民アナーキストたちは、イディッシュ語を運動の言語としていたため、ユダヤの伝統を保持していたかのように見える。だが、彼らはイディッシュ語話者であったため、ドイツ系移民アナーキストたちのドイツ語によるアナーキズムや無神論などの新しい思想や価値観を学びユダヤ系移民の間で伝えることができた。このように、他のエスニック集団との関係の中で新しい価値観や思想・運動を学ぶということも、伝統社会から脱出するためという移民の動機と接点を持っていると言える。また、ユダヤ系移民アナーキストの多くが労働組合・相互扶助組織・協同組合・フリースクールなどで彼らの理想である「支配なき状態anarchy」を追求したが、そこでは、アナーキズムという共通の理想を接点にして、性別やエスニシティの別なく多様な人々によって担われる運動を展開した。さらに彼らは、世界各地で起きるアナーキストに対する弾圧に対して強力な抗議行動を起こすと同時に、そのようにして迫害されたアナーキストに対する国境を越えた救援活動を長期的に展開した。それは彼らが、ロシアだけでなくアメリカでもアナーキストに対する過酷な弾圧を直接・間接に経験したため、一度も出会ったこともない遠く離れた場所に生きる人々の苦境を想像する力を獲得していたからであり、また、いかなる政治体制であっても国家は民衆を弾圧する、というアナーキズムの主張を「真理」として信じるに至ったからである。以上のように見れば、移動の動機・移動を通じた経験は、人々の展開した思想と運動を理解する重要な手がかりになると考えることができる。

篠田徹(早稲田大学)
「I.W.Wを通して見たトランス・パシフィック運動史」

私達は日頃「日本人」「男性」「父親」「大学教員」等々様々な属性と共に暮らしている。だが夫々の属性が社会的に意味する物とそれらの相互関係は、現下の日本がここに至る歴史を経て作ってきた文脈によって定められ、それを個人が容易に変える事はできない。他方で私達は過去長い間、これらの属性の意味やじぶんとの関係がもっと自由な空間を求め、また見知った者との息の詰まる関係に替えて見知らぬ者と打ち解けられる世界を探したが、それは来世以外では望めなかった。だが19世紀後半以降私達は、そういう空間を夢想するだけでなく、そういう事が現実にあるし、ありうる事を知り、少なからぬ人々がそこへ向った。こうして大西洋だけでなく、太平洋を越えて多くの移民が「新世界」、とりわけアメリカ合衆国へと渡る。だが彼らの望みは移民先で必ずしも叶わない。そこでは既にこれらの属性の意味する物が彼の地の歴史的文脈の中で定まっており、後発移民とりわけ太平洋を渡った者達には耐え難い物だった。また同郷人の共同体は移民にとって外的には民族集団の自由な世界であったが、内的には「旧世界」から属性の意味とそれに伴う関係性を引きずる桎梏の空間でもあった。こうした新旧二つの世界における属性からの更なる自由を求めた20世紀初頭の太平洋移民に、一つのユートピアを与えたのがIWW(世界産業労働者同盟)である。それは搾取と差別に喘ぐ移民労働者を守る労働組合であると同時に、彼らが理想のために行動する新しい人間と人間関係を演じる舞台でもあった。それ故彼らは組織名で呼ばれる以上に、その特異な人間類型の集合表現である「ウォブリーズ」として親しまれた。本報告では、戦前の帰米プロレタリア作家前田河広一郎が日系移民のウォブリーズ体験を描いた『大暴風雨時代』を題材に、太平洋移民の場合移民の理由がより自由への希求にあり、異形の人間に成り行く傾向が強い事、またそうした移民が関わるが故に、社会正義を求めて太平洋を跨ぐ運動は政治経済的であるよりも社会文化的な性格が強く、その分既存の組織・事件中心的な運動史では捉えにくい事について考える。